祖師谷観世音堂

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マーカーは祖師谷観世音堂です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。百万遍供養塔のあった場所は、絵図反転表示の四つ切左上・「下祖師谷」下に、観音堂と描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、千川左に描かれる「卍」が祖師谷観世音堂と思われます。

祖師谷観世音堂
[祖師谷観世音堂は、世田谷区成城にある堂宇です。祖師谷観世音堂は、承応3年(1654)祖師谷村信徒一同の誓願に依り建立したといいます。
●境内掲示による祖師谷観世音堂の縁起
観世音堂
当観世音堂は承応三年(一六五四)祖師谷村信徒一同の誓願に依り起立されたもので、延宝二年(一六七四)同村安穏寺住職権大僧都法印秀我の代に修復、其の後元禄十三年十一月(一七〇〇)に再建、今日に至っております。堂は四間半四方、十一面観音寄木造一尺八寸許十七世紀後半のものと云われ、不動明王像には元禄十年六月(一六九七)の刻がある。境内燈籠の最も古いものは、萬治二年十月(一六五九)の建立である。
観世音菩薩は古来子供の無事・生長を御加護下さる「子育観音」と云われています。
薬師堂
当薬師堂は享保十一年九月(一七二六)安穏寺住職権大僧都法印賢光の代に下祖師谷村福田甚左衛門願主となって創立し、其の後明治中期に当境内に移設されたものであります。
薬師如来昭和三十五年作寄木造、脇侍は一木造、十二神将立像は何れも江戸時代中期の作と云われている。
薬師如来は心と身体の病をなおし生きる命の力を授けて下さると云われ、特に「眼病」にごりやくがあらたかであると古来当地の人々の信仰の厚い薬師さまです。(境内掲示より)
●せたがや社寺と史跡による祖師谷観世音堂の縁起
祖師谷観音堂(祖師谷2-1003)
新編武蔵国風土記稿』によれば、 「除地六畝二歩、字丸山ニアリ。堂ノ傍ニ古松三株アリ。承応三年(1655年)ノ起立ナリ。堂四間四方、南向。観音ハ十一面、木ノ立像、二尺一寸許。」とあり、現在も十一面観音像が安置されている。なお、現在観音室内に保存されている昭和16年3月、祖師ヶ谷観世音奉賛会の記録によると、「当観世音ハ、延宝2年(1674)東京府北多摩郡千歳村上祖師ケ谷安穏寺住職大僧都法印秀我代岡村下祖師ヶ谷信徒一同ノ誓願ニ依リ建立シ爾来266年」とあり、建立の年について、武蔵風土記と19年の開きがあるが、その正否は全く不詳である。
傍に、薬師堂があり、薬師如来像が安置されている。前記祖師ケ谷観世音奉賛会の記録によると「当薬師堂ハ、享保11年(1726)、千歳村上祖師ヶ谷安穏寺住職大僧都法印賢光代同村下祖師ケ谷福田甚左衛門願主トナリテ創立シ共後244年」とあり、現在に至っている。なお、戦後一時荒廃し、関係者の努力によって復興したが、薬師堂内に保存されている昭和35年8月に、安穏寺住職によってかかれた記録によると「昭和終戦後、人心の顕廃甚しく、堂宇伽藍の荒廃も目に余るものあり、祖師ケ谷2丁目薬師如来は、信徒の尊崇宴に厚き如来なりしも、何人かに持ち去られ、爾来信徒の再建を願う声大なり。此の時、先祖の建立せし遺志を継ぎ、祖師ケ谷2丁目五香屋福田フク氏、金拾万円也を寄進し、薬師如来を再建せらる。然るに信徒総代石井建次氏外世話人一同、此の美挙に感激し基金を勧募し、金60余万円也を以て、堂守信宅壱棟、仏像弐体を再刻、観音堂・薬師堂修復し、昭和35年8月盛大なる開眼供養を奉修せらる。安穏寺住職権少僧正美定代。」とある。(せたがや社寺と史跡より)
●新編武蔵風土記稿による祖師谷観世音堂の縁起
(下祖師ヶ谷村)観音堂
除地、六畝二歩、字丸山にあり、堂の傍に古松三株あり、承応三年の起立なり、堂四間四方南向、観音は十一面木の立像にて二尺一寸許。(新編武蔵風土記稿より)  (「祖師谷観世音堂|世田谷区成城にある堂宇 – 猫の足あと」より)]

観世音堂 – Google Map 画像リンク」、「薬師堂 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が祖師谷観世音堂参道です。

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