稲荷森稲荷神社

マーカーは稲荷森稲荷神社です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。百万遍供養塔のあった場所は、絵図反転表示の四つ切左上・「経堂在家」左の鳥居が稲荷森稲荷神社と思われます。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

稲荷森稲荷神社
[稲荷森稲荷神社は、世田谷区桜丘にある神社です。稲荷森稲荷神社の創建年代は不詳ですが、当地周辺には水源がない中で当社傍には昭和28年頃まで湧水池があったといい、当地周辺(世田谷村字横根)に人々が定住を始めた頃に創建したのではないかといい、本殿床板には寛政年間(1789-1800)と記載されているといいます。
●せたがや社寺と史跡による稲荷森稲荷神社の由緒
稲荷森神社(桜丘2-29-3)
当神社の創立年代は詳らかでない。しかし当神社のすぐ側に湧水池があった。(昭和28年頂まで)、もともと氏子でみる旧世田谷5丁目には、品川用水を別として、川もなく田のないところでみった。この点から考えてこの土地の人々が住みついたとき、この水源は貴重なものであったにちがいない。この個所に社を造り神をまつるのは当然であったと考えられる。「新編武蔵風土記稿」巻之四十八には「荏原郡之十、世田谷領、稲荷社 除地八畝歩是モ横根ノ内ナリ」と記されている。現在の社殿は寛政年中(1789-1800)に造営されたもので本殿床板の
種子
維時寛政龍次己未霜月
奉新造正一位稲荷宮本社
武州荏原郡世田谷邑横根邨
工匠
岡庭政右エ門、嶋田喜兵エ
助工
清治郎
巳之助
金五郎
とある墨記によっても知られ、また棟札にも「嘉永三庚歳」建造した旨が記してあることからも知られる。その後も数度にわたり修繕されている。また境内の一隅に存する庚申碑には延宝の年号を見ることができる。これらより神社は相当さかのぼることと思われる。また境内はもとうっそうたる森をなしており、樹令三四百年をかぞえる杉の御神木もあり、黒駒街道に面し道中往来の人の崇敬を集め、特に雨を凌ぎ暖をとるのに絶好な神域であったと伝えられている。今なお当時往来の馬追い連中より寄進せちれた向い獅子を存している。また今今日著明な世田谷ボロ市も当神社に起因するという。
明治初年当時の変動により除地せられた八畝の社地も大半を失ない、また明治40年に合祀の議がおこったが、氏子有志は結束して現状を維持したとしいう。
祭神は稲倉魂神静御前が輿州下向の折、一夜当社に参詣したとの口碑がある。(せたがや社寺と史跡より)
●新編武蔵風土記稿による稲荷森稲荷神社の由緒
(世田谷村)稲荷社
除地八畝歩、是も横根の内なり(新編武蔵風土記稿より)  (「稲荷森稲荷神社|世田谷区桜丘の神社 – 猫の足あと」より)]

[黒駒街道(登戸道-現世田谷道)から分かれ府中方面へ抜ける黒駒裏街道(横根道)は稲荷森稲荷神社前を通っていました。  (「世田谷の秋祭り File.13 稲荷森稲荷神社例大祭 – 世田谷散策記」より)]

地元稲荷神社前の庚申と地蔵(世田谷区桜丘): ぼのぼのぶろぐ – ココログ

稲荷森稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「地蔵と庚申塔 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が稲荷森稲荷神社参道です。

カメラ北方向に庚申塔があります。