上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右上・「下馬引沢」右下、「西長寺」が誤記で西澄寺だと思います。]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で駒繫神社の左上の「卍」が西澄寺と思います。
西澄寺(さいちょうじ)
[真言宗智山派寺院の西澄寺は、日輪山薬王院と号します。西澄寺は、隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫して天正2年(1574)に開山したものといわれ、大久保六右衛門忠勝が中興開基となったといいます。玉川八十八ヶ所霊場52番です。
武家屋敷門
現在の港区芝五丁目にあった阿波国徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、江戸幕府は貞享年間(1648-88)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として、25万石の大大名の家禄と家格に応じて建築されたもんと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。(東京都教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 西澄寺」より)]
[東急田園都市線三軒茶屋駅の東、徒歩15分。江戸時代初期に中興の古寺で、江戸時代末期から明治維新にかけて無住となって荒廃しかけたが、明治25年(1892年)に三田村慧荘和尚が入山して寺を復興させたといわれる。豪壮な山門は徳島藩蜂須賀家の三田中屋敷の門を移築したもの。切妻造り両出番所両潜戸付きの建物で、江戸時代の武家屋敷門の特徴をよく伝えるものとして東京都の文化財に指定されている。 山門をくぐると本堂や薬師堂、鐘楼が堂々としたたたずまいを見せている。 (「東京ガイド – 西澄寺(さいちょうじ)」より)]
「西澄寺(東京都 世田谷区下馬2丁目11番の6号)-前半 都内有数の武家屋敷 …」、「西澄寺(東京都 世田谷区下馬2丁目11番の6号)-後半 玉川八十八箇所霊場 …」
「西澄寺 – Google Map 画像リンク」、「薬師堂 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が西澄寺参道です。