マーカーは観音寺です。
観音寺
[観音寺は、薬瀧山修善院観音寺といい、今をさかのぼること500年前後、永正年間(1504~1520)に天台の沙門実海僧正によって創建された由緒ある古刹であります。
寺伝によれば、当時小田原にあった「円正寺」をここ宇奈根の地に移したとされており、開山当時は現在地より多摩川辺に近い氷川神社の社地に建てたと伝えられています。
開山して間もない天文年間(1531~1554)に兵火にかかって焼失し、その後元亀年間(1570~1572)に現在地に再建されました。
創建当時は、すでに戦国時代の幕開けであり、創建後もこの付近一帯は小田原城と江戸城、さらに世田谷城をむすぶ交通の要路を占めており、また武州河越城に抜ける軍道(いくさみち)等も通っていたことが記録に残されております。そのためにつねに戦火が絶えなかったことから、当地に再建されたときに寺号の「円正」が炎上に通ずることを嫌って、ご本尊の十一面観世音菩薩にちなんで「観音寺」に改めたとされています。
開基実海僧正は、武州川崎の生まれで、当寺開山後、永正11年2月15日(1514)には河越喜多院第14世に晋山し「塩味集三巻」「法華懺法抄」「十不二門」等の著作があり、また当山過去帳には沙門実海叙として「過去帳縁起」が残されています。
ご本尊十一面観世音菩薩は、檜材一木造り、彫眼漆箔のおよそ身の丈三尺(95センチ)の立像で、行基菩薩一刀三礼の作として、昔から『秘仏』とされていましたが、世田谷区より屈指の古像として「有形文化財」(昭和56年)の指定を受けています。
当寺開山よりおよそ350年前にさかのぼる平安末期の作で、素朴な造りながら、ふくよかな顔立ちと、その端正な口もとに漂う気品は「上求菩提下化衆生」の発心を、800年余を経た今日に今も伝え、近隣の信仰と尊崇をあつめています。御開扉:元旦・8月1日 (「薬瀧山修善院 観音寺 | 天台宗東京教区」より)]
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図左中央付近・「宇奈根」上に観音寺が描かれています。)
カメラ北北東方向が観音寺山門です。