鉄飛坂・帝釈堂

マーカーは鉄飛坂上です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「衾」右方向が鉄飛坂になります。)

東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」[地図左グリーンのエリア下右・46番が鉄飛坂です。]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図に鐡飛坂が描かれています。

[鉄飛坂(てっぴざか)は東京都目黒区平町二丁目と大岡山一丁目の間を西へ下る坂。暗渠化され現在は緑道となっている呑川中里橋に左岸から下る道で、逆に右岸を上るのが寺郷の坂である。古道品川道の一部を成すが、現在は閑静な住宅街の一角にひっそりと存在している。
「てっぺん」を意味する方言「てっぴ」に由来するとする説が有力だが、名前が突飛で古くから関心を引いたためか、数多くの謂れが伝わっている。『慶長切支丹怪秘記』は佐渡金山開発に貢献したポルトガル人ヒモンヤス・テッピョウスの住所がそれぞれ碑文谷と鉄飛坂となったとするが、碑文谷は室町時代以来の地名であり、矛盾する。また、碑文谷太郎道政が後三年の役で捕虜として連行した鉄の飛を当地に住まわせたことに由来するという話や、鎌倉時代に荏原太郎義利の家臣鉄飛十郎兵衛が当地の名主として坂上に居住していたという話も伝えられている。元寇の際の『金沢殿着到状』に載る鉄飛五郎との関連も指摘される。「てっぴ」を「鉄砲」の転訛として、鉄砲鍛冶が住んでいたことに由来するとする説もある。
鉄飛坂帝釈堂
坂上左手の平町二丁目18-13にある。境内には計6基の庚申塔が存在するが、この内堂内に安置されている4基は昭和57年2月4日に鉄飛坂庚申塔群として区の有形文化財に指定されている。3基は板碑型で、延宝8年(1680年)、貞享2年(1685年)、天保13年(1837年)のものがある。1基は柱型で、明治14年(1881年)に造られ、題目帝釈天が彫られている。堂外の2基は入って左手に縦に置かれている。前の1基は青面金剛が彫られており、後ろの1基は文化7年(1810年)2月建立で、「左ハ池上 右ハほりの内」と書かれており、道標の役目も果たしていた。  (wikipedia・鉄飛坂より)]

[鉄飛(てっぴ)坂は平町2丁目と大岡山1丁目の境、呑川遊歩道の中里橋から東へ上る急坂で、坂上の北側に帝釈(たいしゃく)天を祭る小堂がある。明治25年編さんの「衾村々誌」品川道の条に、「鉄飛坂あり、運輸便ならず、其坂下に呑川あり、之に架するを茶屋橋という」とある。この橋名は、いつのまにか中里橋と変わった。「鉄飛」という一寸変わった呼び名から、何かいわれがありそうに思われるが、案の定、いろいろな説がある。
その1は、徳川幕府の初期時代、佐渡金山奉行であった大久保石見守長安が、ポルトガル人「ヒモンヤス」「テッピョウス」の2人に、鉱山採掘の方法を聴問し、佐渡金山の大改善を行おうとしたことがあった。このことは「慶長切支丹怪秘記」という書物にでているそうだが、確説であるかどうか疑わしいようだ。また、この2人の名が今の碑文谷・鉄飛の起源であるとも記されているようだが、碑文谷・鉄飛という地名は、はるか以前からあり、これも当てにできない。
その2は、奥州征討「後三年の役」に従軍した碑文谷の豪族、碑文谷太郎道政が捕虜「鉄の飛」を連れ帰って、この辺に住まわせたということによるもの。
その3は、鎌倉時代、武蔵国荏原一帯を領していたのが荏原太郎義利という領主であり、その家臣に鉄飛十郎兵衛という人がいて、今の鉄飛坂の上あたりに館を構えていた名主であったということである。鉄飛の館があったから、里人がその名を坂名にしたという。
その4は、元寇襲来のときの金沢殿着到帖に鉄飛五郎の名がみえることによる。
なお、「全国方言辞典」によれば「テッピ」とは「山頂」「てっぺん」などの訛(なまり)であるとし、「綜合日本民俗語彙」には、比較的高所にある屋敷を「テッピ」と呼ぶ例があったと記してある。  (「鉄飛坂 目黒区」より)]

鉄飛坂庚申塔
[旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。  (「目黒区ホームページ – 東急東横線中目黒駅近辺の庚申塔」より)]

[鉄飛坂庚申塔(平町二丁目18番)
鉄飛坂上の帝釈堂境内に2基あり、1基は青面金剛像が、もう1基は「庚申供養塔」という文字が彫られています。堂内には別に4基あり、保存状態が良く、美術的にも優れているということですが、残念ながら堂内は非公開です。  (「目黒区ホームページ – 鉄飛坂庚申塔」より)]

帝釈堂 – Google Map 画像リンク

鉄飛坂上・カメラ西方向が鉄飛坂で、坂左・電柱傍に標識柱があります。また、カメラ北西方向が帝釈堂です。

鉄飛坂下・カメラ東北東方向が鉄飛坂です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*