高木神社

マーカーは高木神社です。

高木神社
[高木神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代には碑文谷村子之神集落の守護神として「第六天社」と称していました。明治時代に高木神社と改称、境内には環状七号線建設により移設された天明8年刻名の角柱文字塔型道標が保存されています。
『高木神社
この神社の創建年代は不明ですが、かなり古くからあり、碑文谷村時代には、子之神集落の守護神として「第六天」と呼ばれていました。江戸時代から第六天と子の神(子の方角の神で、大黒天大国主命)及び高皇産霊神を祀り農村の水神として、また霊験あらたかな神様として敬仰されていました。明治になって高木神社と名づけられ、祭神は大己貴命となっています。境内に天明8年刻名の角柱文字塔型道標があります。この道標は今の環7道路の位置から移されたものです。(目黒区教育委員会掲示より)』  (「猫のあしあと – 高木神社」より)]

高木神社境内の庚申塔
[旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。  (「目黒区ホームページ – 東急東横線中目黒駅近辺の庚申塔」より)]

[高木神社境内の庚申塔(二丁目1番)
文字のみの碑で道標を兼ねており、本来は今の環状七号線の辺りにあったのだそうです。  (「目黒区ホームページ – 高木神社境内の庚申塔」より)]

カメラ西南西方向が高木神社境内です。

カメラ西方向が高木神社拝殿です。

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