中井堀(菅原橋)跡

マーカーは中井堀(菅原橋)跡です。

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国立公文書館 デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図 – 葛西筋御場絵図」(絵図は東が上になっていますので、北を上にすると見やすくなります。絵図を北向きにして、絵図四つ切右下・松木と本一色の間の中井堀に菅原ハシが描かれています。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、千葉街道と中井堀がクロスで交差する場所に菅原橋が描かれています。

菅原橋交差点の成り立ち
[江戸時代の「菅原橋」
菅原橋交差点は、都内でも珍しく11差路となっています。この複雑な交差点は如何にして成立したのでしょうか。文化2年(1805)の「葛西御場絵図」では、「中井堀」に架かる「元佐倉道中」の橋に「菅原大ハシ」の名が確認できます。
元佐倉道(現千葉街道)は、両国から逆井の渡しを経て市川へ通じる重要な道でした。
中井堀は小合溜井(現葛飾区水元公園内)を水源とし、新川に達する灌漑用水で、堀沿いには新宿(にいじゅく)に行く道がありました。菅原橋の名は、菅原道真を祀る天満宮(現北野神社)に由来します。神社には中井堀沿いの道にあった文政2年(1819)の「本一色の石造道標」が現存します。
鹿骨街道の整備
明治38年(1905)の地図には、中井堀の上流に沿って小松川道が、また笹ヶ崎(北篠崎)を経て葛飾八幡宮(市川市)に至る上八幡道が記されています。小松川境川の支流の末端も菅原橋に入り込み、元佐倉道沿いに家屋も建ち並んでいますが、鹿骨街道はまだ田の畦に沿って人家があるような道でした。
昭和3年(1928)に新小岩駅が開業し、同7年(1932)頃には総武線をまたいで上小松町・上平井町への道が、その数年後にも鹿骨街道が直線に整備されました。
同潤会通りと仲井掘通り
関東大震災後の住宅供給を目的に設立された財団法人 同潤会により、松江村の神明耕地整理の地区に436戸の住宅街が出現し、その中央を南北に貫いて同潤会通りができました。この通りの北端は、河原道(千葉街道の中央三丁目から篠崎に至る細い古道)にT字で接続していました。この道が菅原交差点に接続されたのは昭和29年(1954)頃だったようです。
また中井堀は徐々に暗渠となり、1970年代前半には「仲井掘通り」となりました。  (「16 菅原橋交差点の成り立ち」より)]

カメラ南南東方向、北北西方向が中井堀で、カメラ北北西方向手前を横断する道路が千葉街道です。