法善寺(塩場寺)

マーカーは法善寺(塩場寺)です。

国立公文書館 デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図 – 葛西筋御場絵図」(絵図は東が上になっていますので、北を上にすると見やすくなります。絵図を北向きにして、絵図四つ切右下・本行徳右付近に法善寺(塩場寺)があることになります。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、本行徳道右の「卍」が法善寺(塩場寺)です。

法善寺(塩場寺)
[本寺は慶長五年(1600)宋玄和尚の開基と伝える浄土真宗の寺院です。
 宋玄和尚は俗名を河本弥左衛門といい、かつて、片桐且元の家臣として豊臣家に使えていましたが、関ヶ原合戦ののち行徳に来住し、仏門に帰依してこの地に一寺を建立したのが、この法善寺の起こりといいます。
 弥左衛門は元和七年(1627)大僧都に任じ、宋玄と称しましたが、寛永十八年(1641)二月、八十四歳で示寂しました。
 かれは当時、この辺りが海岸に面しており、荒地が広がっていたところから、土地の開拓をはじめ、特に海岸には塩田をつくって製塩の方法を村人たちに教えたといいます。この法善寺が俗に『塩場寺』と呼ばれているのは、このことからです。
 本堂前にある松尾芭蕉
   『うたがふな潮(うしお)の華も浦の春』
と刻した句碑は『潮塚(しおづか)』とよばれていますが、この句は芭蕉が伊勢国三重県)の二見ヶ浦で詠んだものを、寛政九年(1797)芭蕉の百回忌(芭蕉百回忌は正確には寛政六年てす。)を記念して、行徳の俳人戸田麦丈等によって建てられたものです。
 法善寺の本堂は、かつて三重の茅葺屋根をもった壮大なものであったといわれますが、明治十四年(1881)四月、火災によって寺の記録や宝物など、すべてが焼失してしまいました。  昭和五十五年 三月   市川市教育委員会  (「法善寺」より)]

[行徳街道に並行して走る細道は、「権現道(ごんげんみち)」と呼ばれる寺町のメインストリートです。権現とは徳川家康公のこと。つまり、鷹狩りのため東金に向かう将軍が通った道であり、法泉寺で休憩したとの記録もあります。
  家康を最も喜ばせたのは、行徳に広がる塩田でした。家康は「塩は軍用第一の品、領内一番の宝である」と感嘆し、この地域を天領にして保護し、江戸城に塩を納めさせています。施策は二代将軍秀忠三代将軍家光に受け継がれ、大金を投じ「塩浜」が整備されました。関西からやってきて塩田を開発し「塩焼」の製法を伝えた、河本弥左衛門のような人物もいました。弥左衛門は出家して宗玄和尚となり慶長5年(1600)に法善寺を建立しています。法善寺が通称、塩場寺(しょばでら)と呼ばれるのにはそうした由縁があります。  (「市川市|広報いちかわ|特集[新春行徳さんぽ 行徳に歴史の面影を求めて …」より)]

[江戸時代の行徳は塩田地帯であった。「本塩(ほんしお)」は本行徳の古い町の一つで行徳塩発祥の地でもある。「加藤新田(かとうしんでん)」は享保元年に江戸商人が開いた塩田跡であり、御手浜公園(欠真間・南行徳)桜場公園(福栄)東沖公園(末広)もかつて存在した塩田名の名残である。塩田は古くなると畑や水田に変わり、新しい塩田は沖の方へ次第に遠くなって行った。  (「市川編(下)|地名町名の由来|ふれあい交差点|地域とふれあい が …」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「行徳汐濱」(20-12)、「行徳鹽竈之図」(20-13)

法善寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が法善寺参道です。

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