上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。
「国立公文書館 デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図 – 葛西筋御場絵図」(絵図は東が上になっていますので、北を上にすると見やすくなります。絵図を北向きにして、絵図四つ切右下・行徳船場に下あたりに常夜灯があることになります。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、関ヶ島左方向の川岸に常夜灯が描かれています。
常夜灯
[市川市指定有形文化財第1号である常夜灯は、文化9年(1812)に江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の講中が航路安全を祈願して成田山に奉納したものです。
高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置の移動を余議なくされたり、袴腰の上に設置されたこともありましたが、平成21年12月12日、常夜灯公園のオープンに伴い、常夜灯は公園内に免震装置を施してリニューアルして設置され、地震に強く、より安全に皆様に親しんで頂けるようになりました。
江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)のことです。航路の独占権を得た本行徳村は、この地に河岸を設置し、船は毎日明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)まで運航されていました。この船は一般に「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由して、日本橋小網町(行徳河岸)まで、約12.6キロを就航していました。現在の常夜灯周辺は、新河岸(しんかし)と呼ばれ、『葛飾誌略』によると、元禄3年(1690)に景観整備されたと推察されます。
やがて文化・文政期(1804-1830)になると、成田山への参詣路として旅人の利用が多くなり、当初10隻だった行徳船も幕末期には62隻にも増え、江戸との往来がますます盛んになりました。
渡辺崋山の『四州真景図巻』(ししゅうしんけいずかん)や、『江戸名所図会』(えどめいしょずえ) 、『成田土産名所尽』などの絵画には当時の周辺の様子と、常夜灯が描かれています。 常夜灯は江戸川を行き交う船や人々の目印の役割もはたしてきたと思われます。 (「市川市|文化財(市指定)-常夜灯」より)]
「行徳散歩3 常夜灯 千葉県市川市本行徳 – 墳丘からの眺め」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「行徳舩場」(20-8)、「行徳舩場解説・左ページ中程」(20-7)
行徳舩場(拡大図)
[江戸名所図会「行徳舩場」左ページ下に渡し場が描かれ、その左に常夜灯が描かれています。また右ページ上方向に「めいぶつ さゝや うどん」が描かれ、左ページ左上に八まん宮が描かれています。]
「行徳常夜灯 – Google Map 画像リンク」、「常夜燈 – Google Map 画像リンク」、「笹屋うどん跡 – Google Map 画像リンク」、「本行徳八幡神社 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向に常夜灯が設置され、この付近が行徳舩場になります。
カメラ東南東方向が「めいぶつ さゝや うどん」跡です。
カメラ南東方向が八幡神社参道です。