浄興寺

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浄興寺
[浄興寺は、文永3年(1266)源清和尚が草庵を結び創建、弘安年間(1278-87)記主禅師鎌倉光明寺から下総国鏑木光明寺へ往来する際に当地に宿泊、当時の住僧が記主禅師に開山を願ったと伝えられます。記主禅師(良忠字然阿)は大本山鎌倉光明寺を開山した他、鵜の木光明寺中興鴻巣勝願寺、鶴見良忠寺などを創建したという浄土宗第三祖とされた名僧です。
■江戸川区教育委員会掲示による浄興寺の縁起
浄土宗の古刹で龍亀山清泰院と号し、もとは芝増上寺の末寺でした。文永3年(1266)源清和尚が草庵を結んだのが始まりで、弘安年間(1278-87)に記主禅師が鎌倉の光明寺から下総の光明寺に赴く途中この寺に一宿したとき住持が開山を願ったものといわれます。(江戸川区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による浄興寺の縁起
(上今井村)浄興寺
浄土宗、増上寺末。龍亀山清養院と号す。文永3年源清と云僧。始て草庵を結びしが、弘安年中記主禅師鎌倉光明寺より下総国鏑木光明寺へ往来すとて、偶々当寺に宿りしに、時の住僧禅師の大徳ある事をきき、幸なる結縁にぞありとて、請てはなしたると云。記主禅師は浄土宗傳燈録によるに、良忠字然阿、姓は藤氏、石州三隅人弘安10年7月6日河内国勝願寺に於て寂すと云、其傳記詳なれど当寺を創せし事は見えず。按に永正6年宗長がしるせし東路土産に云、角田川の河舟にて、下総国葛西の入江のうちを半日ばかりよしあしをしのぐをりしも、霜かれは難波の浦に通ひて、かくれてすみし里々もえたりおしかも都鳥堀江こく心地して、今井といふ津よりおりて、浄土門の寺浄興寺にてむかへ馬人待ほどに、住持出で物語のついでに、発句所望ありしを、とかくすればほどふるに立ながら、富士の根は遠からず、雪の千里かな、方丈の西さしむかひ、富士くもりなくみえわたるばかりなり云々。又北条氏康が武蔵野紀行に云ここに葛西の庄浄興寺の長老、歳八十余におよべるが迎へにいでられ、寺内に立より一宿すべきよし申されければ、河をわたりかの寺に行て一宿するに、夜に入風ひややかに吹たり松風入琴といふことおもひいでて、松風の吹こえきけば夜もすがら、しらべごとなる音こそかはらね、あくれば駒をはやめて皈らんとすとあり。是等に拠ても古より荘厳の寺なりしさま思ひ知らる。然るを今木下川村浄光寺の新縁起に、以上二紀行の事を付会したれど、もとより寺号の文字も異なり、且今井の津よりおりてといひ、河を渡りてかの寺に行など書るにて、当寺の事蹟なることを明けし、本尊阿弥陀、及二菩薩の像を置り。
末社。山王、稲荷。
琴弾松。大さ二囲ばかり。枝葉垂て三方へ繁茂し、樹のさまことによろし。是氏康が詠歌により此名を取れりと云。(新編武蔵風土記稿より)  (「浄興寺|江戸川区江戸川にある浄土宗寺院 – 猫の足あと」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「今井浄興寺琴弾松」(19-43)、「龍亀山浄興寺説明・右ページ」(19-48)、「龍亀山浄興寺説明-2・左ページ中程過ぎまで。」(19-51)、「北条氏康武蔵野紀行」(19-52)
今井浄興寺琴弾松(拡大図)

北条氏康武蔵野紀行(拡大図)

[上の挿絵には以下のように書かれています。
天正十五年の秋、小田原(おだわら)の北條左京太夫氏康(ほうじょうさきょうのたいふうじやす)むさし野小鷹狩(こたかかり)の時、 葛西(かさい)の浄興寺(じょうこうじ)に一夜(いちや)のやどりをもとめられ、松風入琴といへる和歌を題(だい)にて詠(えい)せられし事、武蔵野紀行(むさしのきこう)に見えたり。
松風の吹くこゑきけばよもすがら
しらべことなる音こそかはらね
          北條氏康  (「歴史散歩 江戸名所図会 巻之七 第十九冊」より)]

浄興寺山門前のカメラです。