上田藩松平(藤井)家上屋敷跡

マーカーは上田藩松平(藤井)家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP685・コマ番号386/553から上田藩屋敷の変遷について記載されています。P689・コマ番号388/553「上屋敷 浅草瓦町」がこの地になります。

上田藩松平(藤井)家
[上田藩(うえだはん)は、江戸時代信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城
上田は武田旧臣であった真田昌幸が、千曲川沿いに上田城(天正11年(1583年)着工)を築いたことから始まる。昌幸は旧主である武田信玄に倣って領民に善政を敷き、上田はこの地域における中核的な城下町として成長していった。
昌幸は、武田滅亡後は織田信長に始まり北条氏徳川氏上杉氏など主家を転々と変え、最終的に豊臣秀吉の家臣となり、徳川家康の与力大名となる。
慶長5年(1600年)の第二次上田合戦では、西軍に与して徳川秀忠軍3万2千を数千の兵で撃退したが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、昌幸・真田信繁(幸村)父子は紀州九度山に幽閉され、上田城は破壊される。
代わって東軍に与した嫡男の真田信之が父の領地を継承、信之は元和2年(1616年)に上田に移り、徳川体制下における上田藩9万5000石が成立した。元和8年(1622年)、幕命によって信之は信濃松代藩へ移封された。
真田氏に代わって、信濃小諸藩より仙石忠政が6万石で入った。宝永3年(1706年)、政明但馬国出石藩へ移封された。
仙石氏に代わって、松平忠周が5万8000石で入った。
初代・忠周は領内の支配体制を固め、京都所司代老中を歴任している。享保13年(1728年)に忠周は死去し、跡を子の松平忠愛が継いだ。このとき、弟の松平忠容に川中島のうちで5000石を分与されている。このため、上田藩領は5万3000石となる。
寛延2年(1749年)、忠愛は隠居してその子・松平忠順が継いだ。この忠順の宝暦11年(1761年)に大規模な百姓一揆が発生した。(上田騒動天明3年(1783年)に忠順は死去し、その子・松平忠済が継いだ。ところが忠済は嗣子に恵まれず、彼の晩年には相続問題が発生。このため、分与した忠容系統から松平忠学を養嗣子として迎え、文化9年(1812年)に忠済は隠居して忠学に家督を譲った。この忠学は有能で、翌年には藩校明倫堂と武芸稽古所(演武場)を設けている。また、軍制制度・土地制度の改革なども行なっている。文政13年(1830年)に忠学は隠居し、姫路藩より迎えた酒井忠実の子・酒井玉助を養子とし、玉助はのちに松平忠固と名乗り家督を相続。忠固は奏者番寺社奉行加役・大坂城代老中などを歴任する。第13代将軍・徳川家定の嗣子をめぐって南紀派一橋派による争いが起こると、忠固は南紀派に与して井伊直弼大老就任などに尽力した。しかし忠固はやがて直弼の安政の大獄問題から対立して老中職を罷免され、安政6年(1859年)に死去した。忠固の後はその子・松平忠礼が継いだ。ところが亡父が幕政に参与して藩政を顧みなかったために藩財政が悪化し、藩内部では藩政の主導権をめぐって藩内で政争が起こるなどの混乱が続いた。
戊辰戦争では新政府側に与して北越戦争会津戦争に出兵する。明治2年(1869年)、忠礼は版籍奉還を行なって知藩事となったが、同年に領内で大規模な騒動が起こった。明治4年(1871年)の廃藩置県で上田藩は廃されて上田県となる。  (wikipedia・上田藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都浅草絵図(文久元[1861]改正)」[絵図上四つ切左下に松平伊賀守(松平忠礼)上屋敷が描かれています。]

拾五之二[2](弘化二年・1845年)」[絵図中央右に松平伊賀守(松平忠固)中屋敷と描かれています。]

カメラ位置は柳橋中央通りで、カメラ東南東方向道路両サイドが上田藩松平(藤井)家上屋敷跡になります。