与板藩井伊家上屋敷跡

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与板藩井伊家
[与板藩(よいた はん、旧字体:與板)は、越後国三島郡(現在の新潟県長岡市与板地域周辺)に所在した藩。藩庁は与板陣屋。藩主は初め牧野家、その後幕領を経て井伊家。家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高(表高)は初め1万石、1705年(宝永2年)井伊家が藩主となった際に2万石となっている。
越後長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成が1634年(寛永11年)に三島郡与板に1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。
その後、幕府領を経て、1705年(宝永2年)に井伊直矩が2万石で封じられた。直矩は近江彦根藩井伊家(掃部頭家)から分家の直勝系井伊家(兵部少輔家)へ養子入りしたが、養父の直朝が精神疾患を理由に遠江掛川藩改易となった後、名門井伊家への特別の計らいにより、減移封の上で直矩の相続による家名存続が許されたという事情があった。以後、与板藩は廃藩置県まで井伊家の藩主で存続した。

兵部少輔家は掛川時代には城主大名であったのが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。1804年(文化元年)、6代直朗若年寄(就任:1781年 – 1812年)としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。なお、最後の藩主・直安も掃部頭家からの養子で、大老井伊直弼の四男である。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに於いてその火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争の中心から遠かった小藩の与板藩をも、妥協を許さぬ対立抗争へと引き込んだ。大政奉還後、井伊家宗家の彦根藩が譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向させたことから(井伊家は代々勤皇を是としていた点もあり)、与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は陸奥会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は前記の事情から新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となった。また当時中立を表明していた長岡藩と接触し、藩の事情を説明していたが、その後長岡藩は一転して同盟軍に加盟している。
藩主の直安は2月まで江戸藩邸に所在したが、その後国許入りする。4月に入り、新政府軍の先発隊が進出すると、直安は高田で新政府軍総督と会見し、恭順の意を示した。4月5日に新政府軍の命を受けて京都御所警備のために上洛した。4月11日には古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊今井信郎を派遣して、与板藩に1万両と兵糧米500俵を要求したが、7000両余しか蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。無一文になった与板藩は、長岡藩家老の河井継之助に泣き付いて同藩から7000両の貸付を得ている。北陸道軍が幕府領だった出雲崎に進駐すると、5月14日にはこれに応じて出雲崎口に出兵した。
5月19日早朝、新政府軍は膠着した戦況を打開するために三島郡本大島村(現長岡市大島新町)から信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。
その後、奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために、会津藩・桑名藩上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが、会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着した。軍議が開かれ、金ヶ崎へは長州・須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩・長州・飯山・戸山・与板藩兵を配置した。同盟軍の3倍の兵力である。塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、新政府軍は至急退却を始めた。しかし同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いた。
結果として、与板藩は新政府軍の前進拠点としての役割を果たすこととなった。この戦いでの総出兵数は166名、戦死者5名、負傷者20名である。なお当時の藩士数は士族253名、卒族1203名と記録されている。
明治2年(1869年)に戊辰戦争の功労を顕彰して、明治政府より賞典金2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主直安は知藩事となり華族に列している。  (wikipedia・与板藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都浅草絵図(文久元[1861]改正)」[絵図上四つ切左上に井伊兵部少輔(井伊直充)上屋敷が描かれています。]

拾五之二[2](弘化二年・1845年)」[絵図四つ切右下に井伊右京亮(井伊直経)と描かれています。]

カメラ位置は浅草橋五丁目交差点で、カメラ南西方向が与板藩井伊家上屋敷跡になります。