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榎本武揚
[榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) – 明治41年(1908年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。名は「ぶよう」と故実読みされることもある。
江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父は箱田良助といい、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、榎本武由(武兵衛)の娘みつと結婚して、婿養子として幕臣となり、榎本武規(円兵衛)と改名した。また、伊能忠敬の弟子でもあった。
幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。万次郎の私塾では後に箱館戦争を共に戦い抜く大鳥圭介と出会っている。 19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。 安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
文久2年(1862年)9月、内田恒次郎・赤松則良・沢太郎左衛門・西周助らと共に長崎を出航してオランダ留学へ向かう。文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。 当地では長崎海軍伝習所で教官を務めていたカッテンディーケ海軍大佐とメーデルフォールト軍医の世話になった。 元治元年(1864年)2月、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として経験する。 戦争を見聞した後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会する。 当時建造中の軍艦「開陽」に搭載する大砲を注文し、最終的に開陽には18門のクルップ施条砲が搭載された。 オランダでは国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ。慶応3年(1867年)3月、幕府が発注した軍艦「開陽」と共に帰国する。
帰国後、幕府海軍軍艦頭並に任命される。 大政奉還後の慶応4年(1868年)1月、徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、和泉守を名乗る。これにより実質的に幕府海軍のトップとなった。 このとき総裁であった矢田堀景蔵は、新政府側への恭順を示していた徳川慶喜の意向を受けて軽挙を慎んだが、結局新政府への徹底抗戦を主張する榎本派が幕府海軍を抑えた。 (wikipedia・榎本武揚より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図中央下「佐竹次郎上屋敷」の下に「三味線堀」が描かれています、その左上方向に御徒組屋敷地が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二」(地図中央上に佐竹右京大夫と記述されています、その前が三味線堀で、右方向に五番組御徒十五人分大縄地と記述されている場所が榎本武揚生誕地か?)
「東京都立図書館アーカイブ – 番地界入東京市下谷区全図(出版年-1921)」(地図中央下・西鳥越町左側の一画が五番組徒十五人分大縄地になると思います。)
カメラ北西方向が五番組徒十五人分大縄地(榎本武揚生誕地跡?)跡のようです。