佐竹商店会

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    [明治維新の後、廃藩置県が実施され秋田藩そのものが消失します。当然その上屋敷も任務を失いました。
    明治二年(1869年)には、火災により建物はすべて焼失してしまい、屋敷内は荒れるにまかされ、草ぼうぼうと生い茂り佐竹っ原といわれるに至ります。明治五年(1872年)には国に上納されて大蔵省の所管となり、一時は陸軍省用地として使用されていたこともあるようです。そのころは戸数六十八戸、住民数は二百六十八名。周辺に比べ最も閑静な場所でありました。
    しかしながら明治十七年(1884年)頃から民間に貸し下げられ、次々と民家が建ち並び、店舗が軒を連ねるようになり、竹町の街、佐竹の商店街の萌芽が形成されたのです。年を経るごとに盛り場娯楽街として充実発展してゆきます。
    かっぽれ、吹き矢、デロレンなど、葦簀張りの小屋掛けが出来、借り馬・打球場・大弓などの大道商売も始まり、それにつれて飲食店、粟餅の曲搗き、しるこ屋、煮込み・おでん、大福餅売りなどが縁日の露店のような形で店を出し、寄席・見せ物小屋が並ぶようになります。
    大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災は、佐竹全域ことごとく灰燼に帰し、一面の焼け野が原と化してしまいました。しかし罹災直後から全店主が一丸となって復興にあたり、街を取り巻いていた堀(藩邸時代の名残り)も埋め立てられ、区画整理・道路拡張なども進み、以前にも増して近代的な商店街として再生し、芝日陰町、京橋八丁堀と共に下町三大商店街の一つに数えられるほどの賑わいを取り戻すことができました。
    昭和十九年(1944年)十二月三十一日の夜と、翌二十年(1945年)二月二十五日の雪の降る昼下がりの二度にわたって空襲を受け、商店街の半分近くが焼失してしまいました。売るに物なく、買うに人なきありさまでしたが、終戦となるや直ちに復興に着手し、翌昭和二十一年(1946年)には早くも佐竹商店街組合を結成し、個々の店の努力と協同の力で不死鳥のごとく瞬く間に往事の賑やかさを取り戻しました。
    昭和三十九年(1964年)新住居表示採用にともない、町名としての「竹町」は消え、台東と変わりましたが、佐竹の名は町会名及び商店街として絶える事なく後世に伝えられてゆく事と信じます。 また、昭和四十四年(1969年)には商店街全店が悲願とした全蓋アーケードがついに完成、同五十二年(1977年)にはカラー舗装を施工し、ここに名実共に都内屈指の商店街として完成したのです。  (「商店街の歴史 – 佐竹商店街 」より)]

    佐竹商店会ホームページ

    台東区のとってもレトロな商店街、おかず横丁&佐竹商店街散歩。 | 浅草

    カメラ位置は春日通りで、カメラ南方向が佐竹商店会です。

    カメラ北西方向が「篠原まるよし風鈴」です。(関連リンク・篠原風鈴本舗)

    カメラ西方向がカステラ専門店「中屋洋菓子店」です。(中屋洋菓子店 – 新御徒町/ケーキ [食べログ])

    カメラ東南東方向・左が「鳥越せんべい 加賀屋」で、右が「佐藤精肉店」です。(『台東区台東、佐竹商店街の「鳥越せんべい 加賀屋」。【1st】』by … – [食べログ]佐藤精肉店 – 上野/コロッケ・フライ [食べログ])

    カメラ西北西方向が「泓豊(ホンフ)とくとく弁当」です。(泓豊とくとく弁当 – 新御徒町/弁当 [食べログ])

    カメラ東南東方向が数量限定の「日替わり定食」を出す、お茶屋「宇治屋茶舗」です。

    カメラ東方向が「ゼイタク煎餅 佐竹分店」です。(ゼイタク煎餅 佐竹分店 (重盛の人形焼) – 新御徒町/和菓子 [食べログ])

    カメラ位置は佐立通り南口交差点西で、カメラ北北西方向が佐竹商店会です。

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