大洲藩加藤家上屋敷跡(八幡神社)

マーカーは八幡神社です。

関連リンク – 大洲藩加藤家中屋敷跡大洲藩加藤家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP471・コマ番号279/553から大洲藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 下谷御徒町」がこの地になります。

大洲藩加藤家上屋敷跡(八幡神社)
[御徒町には大洲藩の上屋敷があった。江戸時代の大名は隔年で参勤交代し、領地と江戸を交互に行き来していた。各大名は江戸幕府から江戸屋敷を与えられた。上中下の三ヶ所の屋敷を持つのが一般的で、大洲藩は江戸時代後半、上屋敷が御徒町中屋敷下谷竹門、下屋敷浅草諏訪町にあった。大洲藩の支藩新谷藩の屋敷も浅草新堀末、遊郭吉原の近くにあった。現在このあたりは台東区になっているが、上中下屋敷がすべて台東区内にある大名は大洲藩加藤家のみである。藩主が居住した上屋敷は、7,254坪の広大な屋敷地で、現在は御徒町公園と御徒町中学校になっている。
 昨年11月、大洲市立博物館のS氏と一緒に現地を訪れた。JRの御徒町駅から東に向かい歩いて5分ほどである。御徒町公園には八幡神社と庭園があり、標柱に「史蹟旧加藤邸久森山跡」とあった。この八幡神社は大洲八幡神社から勧請されたといわれている。「旧加藤邸」の文字と八幡神社がかろうじて、大洲藩上屋敷と分かる程度、それ以外にほとんど面影が残っていない。大正時代まで加藤家の屋敷があったそうである。  (「大洲藩日記」より)]

大洲藩
[大洲藩(おおずはん)は、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩庁は大洲城。支藩として新谷藩があった。
江戸時代初期の大洲は藤堂高虎の所領であり、大洲城主として丹羽長秀の子で高虎の養子の藤堂高吉が在城した。慶長13年(1608年)、高虎は伊勢国津藩に転封となったが、大洲は高虎預かりの地のままだった。同年9月になり、淡路国洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入部し、大洲藩が立藩した。
2代安元は元和3年(1617年)、信濃国飯田藩に転封となった。同年、加藤貞泰伯耆国米子藩より6万石で入部した。
元和9年(1623年)、貞泰が跡目の届け出をしないまま急死したが、長男の泰興が将軍徳川秀忠に御目見し、相続を認められた。その際、弟の泰但(後の直泰)は1万石分知の内諾を得て新谷藩が成立した。これがきっかけとなり寛永16年(1639年)までお家騒動が続き、結局内分分知ということで決着した。
加藤家には好学の気風があり、藩もこれに倣い好学・自己錬成を藩風とした。初期の大洲藩からは儒学者の中江藤樹が出ている。
大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していた。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら参陣し、活躍した。また、坂本龍馬が運用したことで知られる蒸気船いろは丸は大洲藩の所有であり、大洲藩より海援隊に貸与していたものである。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により、旧大洲藩領を管下とする大洲県(草高6万石、現石3万476石余)が設置された。  (wikipedia・大洲藩より)]

資料リンク
東京都立図書館アーカイブ – 東都下谷絵図(嘉永4[1851]/文久2[1862]改正)」[絵図中央左下に加藤出羽守(加藤泰祉)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」[絵図中央左上に加藤遠江守(加藤泰幹)が描かれています。]

八幡神社 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は御徒町公園で、カメラ北方向に八幡神社があります。

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