岩槻藩大岡家上屋敷跡

マーカーは岩槻藩大岡家上屋敷跡です。

関連リンク – 岩槻藩大岡家上屋敷跡(大名小路)岩槻藩大岡家(大岡忠光)下屋敷跡岩槻藩大岡家本所下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP383・コマ番号234/553から小島藩屋敷の変遷について記載されています。P385・コマ番号236/553「上屋敷 浅草諏訪町」がこの地になります。

岩槻藩大岡家
[岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城
藩主家がめまぐるしく変わって藩の支配が定着しなかったが、その後に旗本から若年寄に出世した大岡忠光が藩主として入る。忠光は9代将軍・徳川家重御側御用人として幕政に影響力を持ち、宝暦元年(1751年)4月には代官支配で旧植村家領の上総勝浦藩を与えられていたが、宝暦6年(1756年)には2万石に加増され、本拠を岩槻城に移した。
これに伴い勝浦領は房総分領として岩槻藩の飛地となり、勝浦陣屋をはじめとする役所や番所を置くとともに、郡奉行が常駐して代官支配を行い、重要検案は江戸藩邸の指示を仰いだ。夷隅郡南方には奥山御林があり、山林資源を産出した。
岩槻藩は大岡家の時代にやっと藩政が安定したものの、3代藩主・大岡忠要の時代に起きた天明の大飢饉で藩内は甚大な被害を受け、その後も天災が相次いで藩政は多難を極め、財政窮乏化が進んだ。このため忠要は有能な人材登用、厳しい倹約を柱とした藩政改革を実施する。5代藩主・大岡忠正の時代には藩校・勤学所と武芸稽古所が設置された。6代藩主・大岡忠固奏者番若年寄に栄進したが、この頃に起きた米価昂騰から領内で大規模な百姓一揆が起こった。
アヘン戦争が敗れたとの報が幕閣を震撼させると、その余波で海防強化を命じられた岩槻藩は大砲鋳造などで財政が逼迫した。弘化2年(1845年)4月1日には前年炎上した江戸城本丸の普請奉行を務めた功により3,000石が加増されたが、それも文字どおりの焼け石に水だった。忠固は嘉永5年(1852年)7月4日に死去、跡を子の大岡忠恕が継いだ。忠恕の時代には幕末の動乱に天災が重なり、さらには岩槻城の本丸焼失などの不幸が相次いで、財政は破綻寸前となった。このような中で忠恕は慶応2年(1866年)3月29日に隠居して家督を長男の大岡忠貫に譲った。慶応3年12月(1868年1月)の江戸薩摩藩邸の焼討庄内藩上山藩鯖江藩と共に加わる。しかし翌慶応4年に始まった戊辰戦争では一転して新政府に帰順し、幕府軍追討に功を挙げた。翌年の版籍奉還で忠貫は知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で岩槻藩は廃藩となる。  (wikipedia・岩槻藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都浅草絵図(文久元[1861]改正)」[絵図上四つ切右下に大岡兵庫頭(大岡忠恕)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は寿四丁目6地先交差点で、カメラ南方向道路両サイドが岩槻藩大岡家上屋敷跡になります。