川柳発祥の地の石碑

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川柳発祥の地の石碑
[「川柳発祥の地」の碑
柄井川柳が最初の万句合を興行した場所の推定跡地に「川柳発祥の地」の碑がある。
「川柳発祥の地」の碑
碑の場所は、東京都台東区蔵前4丁目37(三筋二丁目交差点の南東角)
碑文は以下のとおり
宝暦7年(1757年)8月25日、当地(旧浅草新堀端天台宗龍宝寺門前)里正柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、遂には文芸の名をもって呼ばれ、今日に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その250年に当たって後学相諮り、一碑を建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史に留めんと祈念するものなり。平成19年(2007年)8月25日、川柳250年実行委員会』
「川柳発祥の地」の碑・wikipedia-photo  (wikipedia・柄井川柳より)]

[川柳(せんりゅう)は、五・七・五の音を持つ日本語の詩の一つ。
俳諧、すなわち俳諧連歌から派生した近代文芸である。俳句と同じ五七五の音数律を持つが、俳句が発句から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付け(前句附)が独立したものである。俳句にみられる季語切れの約束がなく、現在では口語が主体であり、字余り句跨りの破調、自由律駄洒落も見られるなど、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくない。かつての俳諧では雑俳に含めて呼ばれたことがある。
江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が選出した『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる、後に柳樽と称される。1765年-)が刊行されて人気を博し、これ以降「川柳」という名前が定着した。この頃は、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多かった。
初代川柳は選句を「高番」(古事,時代事)、「中番」(生活句)、「末番」(恋句,世話事,売色,下女)の3分野に分け、世態人情を軽妙にうがち諷する詩風を樹立した。性的な内容の笑句・艶句は「破礼句(バレ句)」とも呼ばれ(バレは卑猥・下品の意)、1776年(安永5)にはそれらを集めた『誹風末摘花』(末番の句を集めたことから名付けられた)が刊行され版を重ねた。
柄井川柳が没すると、その子孫が宗家として代々の名籍「川柳」を名のるようになった。『誹風柳多留』は刊行され続けたが、前句付けの興行を経て「柳多留」へ選句される二重の選考システムが失われ、次第に句会としての形式を強め、選者もベテラン作者が任意に行なうようになり、「柳多留」も句会の発表誌の性格を帯びるものになっていった。
一時は寛政の改革に伴う検閲により、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句が『誹風柳多留』から削除されるなどしたが、四世川柳が川柳を「俳風狂句」と銘した文化文政期になると、江戸町人文化を背景に一段と盛んとなった。『誹風柳多留』には、九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々逸坊扇歌、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が前文や評者として名を連ね、狂句とはいえ風雅な文芸性を備えていた。
しかし、天保年間に入ると天保の改革の風俗取締りが厳しく、公職を兼務していた四世川柳は、やがて職務の障りになるとして川柳号を廃せられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲位、五世川柳は、狂句の存続のため「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作り、内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものに変えた。しかし五世の意に反し、それまでの狂句のもつ自由な表現はこの規範が枷となり内容的には没落し、表面的な言葉遊びに陥ってしまった。
『誹風柳多留』は幕末(1838年、天保9年)まで刊行され続け、延べ167編を数えた。この時代までの川柳を古川柳と呼ぶことがある。  (wikipedia・川柳より)]

川柳発祥の地の石碑 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に川柳発祥の地の石碑があります。

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