平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)

マーカーは平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑です。

平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)
[現在の長崎県北部の豪族だった松浦党より台頭した松浦隆信は、肥前北部及び壱岐を征す戦国大名となった。その子の鎮信(法印)天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州征伐の折、旧領である北松浦郡・壱岐を安堵された。続いて慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで東軍に与した松浦氏徳川家康より6万3千石の所領を安堵され、平戸藩が確立した。
12代松浦詮の時代に幕末を迎える。第二次長州征伐の後、藩論は倒幕に傾斜し、慶応4年(1868年)戊辰戦争勃発直後、官軍方への参加を明確にした。同時に軍制改革により洋式の銃部隊を編成し、奥州へと転戦した。
明治4年(1871年)、廃藩置県により藩領は平戸県となったのち、長崎県に編入された。藩主家は華族に列した。  (wikipedia・平戸藩より)]

[六義園小石川後楽園などと並んで「江戸時代に造営された代表的な大名庭園のひとつ」と謳われ、明治時代から大正時代にかけて多くの人々から親しまれた蓬莱園の跡地にある。蓬莱園は、肥前国平戸藩松浦家上屋敷内にあった名園で、小堀遠州が造園した。関東大震災で甚大な被害を受けて荒廃し、その後かつての趣を取り戻すことはなかった。今でも校内には、旧蓬莱園の一部として「望潮の入江」付近が残存する。(wikipedia・東京都立忍岡高等学校より)]

[旧蓬莱園のイチョウ
どの本の写真を見ても、遠くから撮った写真しか載っていない、不思議なイチョウ。それが旧蓬莱園のイチョウでした。台東区の街中にあり比較的アプローチは簡単なはず。しかし、都立忍岡高校の敷地内にある、だから入れない、と本には書いてあります。
 ある晴れた土曜日、思い切って訪ねてみることにしました。浅草橋駅から高校へ向かうと、テニスコートのネット越しにその威容が伺えます。校舎と校舎の間に挟まれ、ちょっと窮屈な感じもするその空間いっぱいに、イチョウは枝を広げていました。10月下旬にもかかわらず、すでに黄葉がはじまっているのは驚かされます。 (「旧蓬莱園のイチョウ」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション- 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図左上・松浦壱岐守上屋敷が平戸藩松浦家上屋敷です。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「拾五之二[2] – 2/2」(絵図右中程に松浦壹岐守と描かれています。)、「拾五[216] – 69~75/216」(絵図左ページ中程に松浦壹岐守が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 東京市浅草区全図(出版年-1907)」(地図左端・浅草向柳原町二丁目上側の一画が平戸藩松浦家上屋敷跡です。)

蓬莱園跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向に平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑があります。

カメラ西方向・広場中央の木が旧蓬莱園のイチョウです。

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