庄内藩酒井家下屋敷跡

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酒井忠篤
[酒井 忠篤(さかい ただずみ)は、嘉永6年(1853年)2月13日、出羽庄内藩9代藩主・酒井忠発の五男として生まれる。文久2年(1862年)、義兄で10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。文久3年(1863年)10月26日、従四位下、左衛門尉に叙任する。
幕末期の動乱の中では、譜代大名の中でも有力な名門出身のため、文久3年(1863年)4月15日に新徴組を預けられ、11月には江戸市中取締役に任じられた。元治元年(1864年)8月18日には田川由利郡など2郡、およそ2万7000石を加増されて17万石の大名となった。
慶応2年(1866年)、大凶作で減税を求める郡中騒動が起こるが、松平権十郎ら主流派(佐幕派)によって鎮圧された。この功績により藩内で勢力を持った主流派は、慶応3年(1867年)に藩政改革や政治方針で対立していた酒井右京公武合体派を逮捕投獄・粛清して、藩論を佐幕派で統一した(大山庄大夫一件、「丁卯の大獄」とも)。そして同年12月25日には薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。
慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、幕府軍が敗れた後も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦う。秋田藩新庄藩そして新政府軍本体による攻撃をも破り、連戦連勝した。しかし、周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、ほぼ無敗のまま9月25日に降伏し、9月27日に開城して謹慎を命じられた。12月7日には新政府に反逆したとして、改易に処せられた。後に庄内藩は弟の忠宝が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。
南洲翁遺訓
忠篤と旧庄内藩士七十余名は、明治3年(1870年)に薩摩を訪ね西郷隆盛に学んだ。これは戊辰戦争における庄内藩への寛大な処置に対する感謝と、西郷の思想に強く共鳴するものがあったからである。明治22年(1889年)、西郷が大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって赦されると、三矢藤太郎を中心とする旧庄内藩士らによって西郷の教えが纏められ、翌明治23年(1890年)に『南洲翁遺訓』として発刊された。  (wikipedia・酒井忠篤より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切左上に酒井左エ門尉(酒井忠発)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 拾五之二(弘化二年・1845年)」(コマ番号・2/2、絵図四つ切右下に酒井左エ門尉(酒井忠発)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は左衛門橋通り・浅草橋駅西口交差点で、カメラ東方向、神田川(左衛門河岸)から福井町通りまでが庄内藩酒井家下屋敷跡になると思います。