マーカーは津藩藤堂家中屋敷跡です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP639・コマ番号363/553から津藩屋敷の変遷について記載されています。P640・コマ番号364/553「中屋敷 下谷窪町」がこの地になります。
藤堂高猷
[藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、文化10年(1813年)2月9日生まれ。文政7年12月(1825年)に先代の父伊勢津藩第11代藩主藤堂高兌が死去し、翌年2月29日 (旧暦)に跡を継ぐ。文政8年(1825年)3月15日、将軍徳川家斉に御目見する。文政9年12月16日(1827年)、従四位下侍従・和泉守に叙任する。
天保13年(1842年)、幕命により伊勢神宮警備を務め、砲台を築いている。このことから有造館校長の斎藤拙堂とともに西洋式軍制を取り入れるなどの兵制改革に努め、文久3年(1863年)には天誅組の変を鎮圧し、元治元年(1864年)も京都守衛のため兵を送った。
幕末期、高猷は佐幕派で公武合体を推進していたが、あまり幕政には関わらなかった。慶応4年(1868年)の戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、当初は旧幕府軍に与していた。しかし、後退して橋本を守備していた津藩兵が新政府軍に転じ、新政府軍勝利の一因となった。さらに戊辰戦争、箱館戦争にも派兵した。
明治2年、津八幡宮境内に三重県護国神社の前身となる表忠社を創建し、津藩士の御霊を祀った。
明治4年(1871年)6月28日、家督を次男の高潔に譲って隠居する。 (wikipedia・藤堂高猷より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図中央左下方向に藤堂和泉守(藤堂高猷中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」(絵図中央上に藤堂和泉守(藤堂高猷中屋敷が描かれています。)
カメラ位置は末広会商店街東端で、カメラ北西方向末広会商店街を含む北側が津藩藤堂家中屋敷跡になると思います。