甚内橋遺跡碑

マーカーは甚内橋遺跡碑です。

甚内橋遺跡碑
[当社は「甚内霊神」の名で、江戸時代初期に創建された。伝承によれば、高坂甚内武田家の家臣高坂弾正の子で、主家滅亡後、祖父に伴われ諸国を行脚するうち宮本武蔵に見出されて剣を学び奥義を極めた。武田家再興をはかり、開府早々の江戸市中の治安を乱したため、瘧(マラリア)に苦しんでいたところを幕府に捕えられた。鳥越の刑場で処刑されるとき「我瘧病にあらずば何を召し取れん。我ながく魂魄を留、瘧に悩む人もし我を念ぜば平癒なさしめん」といったことから、病の治癒を祈る人々の信仰を集めたという。八月十二日の命日は、今も多くの人で賑わっている。かつて鳥越川に架かる橋の一つ「甚内橋」の名も付近に甚内神社があったからだといわれる。鳥越川は、今は暗渠となり橋もなくなったが、その名は「甚内橋遺跡」(浅草橋三丁目十三番四号)の小碑に残されている。関東大震災まで浅草消防署の付近にあったが焼失。その後移転。昭和五年、現在地に移った』 (平成7年3月 台東区教育委員会)  (「神社ぐだぐだ参拝録 甚内神社(浅草橋三丁目)」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図中央左上方向・元鳥越町に「鳥越神社」が描かれ、その左方向にに「鳥越橋」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図中央下に「鳥越明神社」が描かれ、その右方向に「鳥越橋」が描かれています。)

カメラ南南東方向・建物角に甚内橋遺跡碑が設置されています

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