秋田藩(久保田藩)佐竹家蔵前中屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP705・コマ番号396/553から久保田屋敷の変遷について記載されています。P706・コマ番号397/553「中屋敷 神田佐久間町」がこの地になります。

佐竹義堯
[佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、文政8年(1825年)7月27日、陸奥国相馬中村藩主・相馬益胤の三男として誕生。なお、佐竹家相馬家は相互に養子をとるなど親戚関係にあり、義堯は久保田藩3代藩主・佐竹義処の直系子孫にあたる。
天保10年(1839年)に元服し、相馬宗胤(むねたね)と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日、久保田新田藩(後の岩崎藩)主・佐竹義純の養子となる。それに伴い佐竹義核(よしざね)と改名した。4月2日、養父・義純の娘と婚儀を行う。4月26日、12代将軍・徳川家慶御目見する。10月26日に養父・義純の隠居により、佐竹壱岐守家の家督を相続して新田藩7代藩主となった。
安政4年(1857年)7月1日、久保田藩主・佐竹義睦が病死したのに伴い、7月20日に義核は末期養子として佐竹宗家の家督を相続して同藩の12代藩主となり、同時に佐竹義就(よしたか)と改名する。新田藩は実弟(益胤の四男)の佐竹義諶が相続した。12月16日、従四位下・侍従・右京大夫に叙任された。文久2年(1862年)に佐竹義堯と改名している。
安政6年(1859年)5月、秋田に入部した。入部間もない7月1日、男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ、領民を驚かせた。当時は攘夷論が叫ばれる時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許可した。藩内の情勢に目をやると、当時の久保田藩は財政事情が悪化しており、就封早々に人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。
文久2年(1862年)4月に江戸に上る。同年9月28日、14代将軍・徳川家茂に従い上洛する許可を得る。文久3年(1863年)1月12日に江戸を出発し、27日に京都に到着する。同年2月9日、孝明天皇に拝謁する。同年3月14日、帰藩する許可を得る。同年4月1日に江戸に到着し、9日に秋田に出発する。同年7月25日、上洛を命じられるものの、病気を理由に代理として重臣・戸村義效を派遣する。同年11月15日、将軍の上洛中に伴い、幕府から江戸の警備を命じられる。
元治元年(1864年)2月19日、幕府から京都警備を命じられる。その財源として、2万両の新札発行と3万5,000石の用米調達に取りかかった。同年4月17日、従四位上左少将に任官する。
慶応元年(1865年)11月8日、幕府から翌年春の京都警備を命じられる。同年12月22日、病気を理由に翌年秋の京都警備へ変更することを許可される。慶応2年(1866年)7月、病気を理由として名代小野岡右衛門を上洛させた。同年8月13日に義堯も秋田を出発し、29日に江戸へ到着するものの、病気のためそのまま江戸に留まった。
慶応3年(1867年)8月11日、左中将に任官する。同年8月25日、前年の凶作に苦しむ領民の救恤のため帰藩を願い出たが許可されず、その間に持病が再発する。同年11月に重臣を上洛させて、12月23日に義堯は秋田へ向けて出発した。江戸に逗留中、王政復古の大号令がなされた。慶応4年(1868年)の1月に帰藩し、3月に名代として小野岡右衛門を上洛させることに決定する。
慶応4年に戊辰戦争が勃発すると、新政府から4月6日に庄内征討、4月27日に会津征討の命令を受ける。同年閏4月9日、奥羽鎮撫使副総督・澤為量から庄内征討への出発の遅れを責められる。同年5月、澤が薩長藩兵と共に久保田藩領へ撤退してくる。澤らが城下に逗留すると藩内の尊王派を刺激しかねないため、義堯を含む藩高官は澤らを弘前藩に追い払おうとするものの、藩境が封鎖されていたため失敗し、澤らは領内に留まることになる。同年7月、奥羽鎮撫使総督・九条道孝らが久保田藩領に到着する。その受け入れを責める仙台藩の使者への対応に苦慮するうち、勢いづいた尊王派の藩士が使者を殺害したことから、久保田藩は明確に新政府側へ与することになった(秋田戦争)。戊辰戦争は明治2年(1869年)に終結し、同年2月13日、戦争による領内疲弊のために新政府から20万両を賜った。
明治2年6月17日、版籍奉還がなされると義堯は久保田知藩事に任命される。明治4年(1871年)の廃藩置県により免職となり、その後東京に転居した。  (wikipedia・佐竹義堯より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切左上・佐竹左近将監上屋敷左に佐竹次郎(佐竹義睦)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 拾五之二(弘化二年・1845年)」(コマ番号・2/2、絵図四つ切右下・佐竹右京大夫(佐竹義厚)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は浅草橋一・二丁目交差点で、この周辺が秋田藩(久保田藩)佐竹家蔵前中屋敷跡になると思います。