マーカーは西福寺です。
西福寺
[浄土宗の西福寺は、東光山松平良雲院と号し、もと京都知恩院末です。江戸時代には千駄ヶ谷に100石の御朱印を受けていた他、別院真行院、塔頭六ヵ院(源祟院、法林寺、林照院、長應院、存心院、智光院)を有し、浄土宗江戸四ヶ寺の一つとして触頭を勤めていました。
育英小学校発祥の地
明治2年(1869)3月、明治新政府は江戸幕府・藩による政治体制にかわる新しい日本の構築にあたって、国民全体の教育の推進をはかるため、小学校の設置を定め、明治3年3月、東京に六つの小学校を設立した。その一つが、本寺境内に設立された「仮小学 第四校」で、現在の育英小学校の前身である。開校日は同年6月23日で、現蔵前・鳥越・浅草橋・柳橋・三筋附近に居住していた旧大名・旗本及びその家臣の子弟たちが入学したといわれる。したがって当地は同5年8月の学制発布に先立つ、東京で最も早い公立小学校発祥の地である。当校は、同7年(1874)4月中旬に医学館跡地(現浅草橋4丁目17番附近)へ移転、明治10年8月、育英小学校と改称し、同18年10月に現在地(浅草橋2丁目26番8号)に移った。(台東区教育委員会) (「猫のあしあと」より)]
[勝川春章(かつかわしゅんしょう)墓 都指定旧跡
浮世絵師。宮川氏ともいい、旭朗斎または、西爾と号した。俗称は祐助。浮世絵を描き、また書を能した。はじめ嵩谷に学び、歌舞伎俳優の肖像画および五人男の図をよくした。また武者絵に巧みで、はじめ人形町林屋七右衛門の家に寄食し、貧しいため名印がなく、林屋の受領印をもって代えた。印文は壺の中に林の字があった。このために人々は彼を壺屋と呼んだという。寛政4年(1792)12月8日没した。没後門人勝川春好が二世春章となり、同じく壺形の印形を用いたため、人々は彼を小壺と呼んだ。
昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会 (「東京都台東区の歴史 勝川春章墓(西福寺)」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(1849 – 1862)[絵図中央下に「松平山 西福寺」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図中央上に「西福寺」が描かれています。)
「江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「西福寺」(16-34)、「東光山西福寺解説・左ページ中程から」(16-33)
西福寺(拡大図)
カメラ西北西方向が西福寺山門です。