マーカーは須賀神社です。
須賀神社
[浅草天文台跡の標識がある蔵前橋通りと江戸通りとの交差点南西角から江戸通りを南、JR浅草橋駅方面に向かうと、ビルの間にお宮が鎮座している。須賀神社で、『江戸名所図会』に「祇園社ぎおんのやしろ」とあって「当社牛頭ごず天王は天暦てんりゃく年中の鎮座なりとぞ。大倉前の総鎮守にして」と記されている。天暦というと十世紀半ば、平安時代中期の年号である。神社に所蔵されている「縁起」によれば、さらに古い六世紀から七世紀にかけての推古天皇のころの創建とされているという。いずれにしろ、江戸時代よりはるか昔の創建と推定される。祭神の牛頭天王は八つの頭と尾を持つ八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した素盞嗚尊(すさのおのみことの)ことで、京都の祇園・八坂神社の祭神と同じなので、『江戸名所図会』は祇園社としたのだろう。だが須賀神社は江戸時代、団子天王の通称で親しまれていた。同書に「牛頭天王御祭禮」の幟が立つ賑やかな祭風景の挿絵が載っていて、「祇園會篠(ささ)團子」の題で「毎歳六月八日の暁、是を修行す、氏子の家々にて、團子を製し、悉く篠の枝につけて、是を宮前に供す、時に諸人爭ひ、これをとり得て、家内に収め置、疫災を除くの守護とす」との書き込みがある。このいわれは、付近の農家の娘の疫病平癒にある。昔、流行の疫病にかかった十二歳の娘の両親が、天王さまに二十一日間日参して病気が治るよう祈ったところ、娘は全快した。大喜びの両親は、娘の歳の数と一年の月の数を合わせた団子を篠の葉に刺して神前に供えた。以来、願い事が叶ったお礼に篠団子を奉納する人が多くなった。明治元年、天王社は須賀神社と改名、所在地名も浅草天王町から同須賀町と改められた。今は浅草橋二丁目となり、団子は神社で作って氏子に授与している。 (「大成建設 | ライブラリー – 祇園社 団子天王 須賀神社」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図中央左方向・「池田内匠頭上屋敷」下に「天王社 大円寺」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図中央右方向に「大圓寺」が描かれています。)
「江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「大倉前閻魔堂牛頭天王十王堂」(16-31)、「祇園会篠団子」(16-32)、「祇園社解説・左ページ左から4行目より」(16-28)
大倉前閻魔堂牛頭天王十王堂(拡大図)
[「大蔵前 閻魔堂 牛頭天王 十王堂」として描かれているページ。右手にあるのが「華徳院」の「閻魔堂」で、江戸三大閻魔の1つに数えられ閻魔詣が盛んだった当時は賑わった。須賀神社は一番左手に描かれている「てんのう」と「十王堂」。 (「浅草橋須賀神社 / 東京都台東区 – 御朱印・神社メモ」より)]
カメラ西北西方向が須賀神社参道です。
須賀神社拝殿前のカメラです。