鳥居耀蔵屋敷跡

マーカーは神田練塀町案内板です。

鳥居耀蔵屋敷跡
[鳥居耀蔵拝領屋敷河内山宗俊で有名な下谷の錬塀小路にあった事は小説などでも知られている。 錬塀小路は現在の神田練塀町秋葉原駅のすぐ北にあたる。藤岡屋日記-・弘化2年にこの屋敷の図が掲載されている。 普通、屋敷図などは余程のことがないと後世に残らないが、鳥居は前述のように弘化2年(1845)に改易となっており、屋敷も公儀に没収されているのでその記録として残ったと考えられる。
表門は新屋敷表門通り、裏門が練塀小路に接していた。表門は両側に使用人が住む長屋を配した長屋門で、庭には大きな池があり、2500 石の旗本家にふさわしい立派な屋敷である。この屋敷は鳥居が弘化2年2月 22 日、罪を問われて相良遠江守預けとなってからは鳥居本家丹波守が預かっていた。 その後鳥居が4月 27 日、佐竹壱岐守へ預け替えとなり、さらに 10 月3日、最終的に京極長門守への永預けが決まると、幕府から屋敷取り壊しの命が出た。
この更地は翌3年 11 月 14 日に下記の旗本に分割して与えられた。
永田鍋太郎 31 間 x 15 間 465 坪
平井 数馬 18 間 x 15 間 270 坪
藤田 次郎 14 間5尺x 15 間2尺 222 坪
大野茂三郎 14 間5尺x 15 間2尺 222 坪
伊庭保五郎 14 間5尺x 15 間2尺 222 坪  (「第10章 関わった人々 – ⑤鳥居甲斐守忠耀 – 仁杉五郎左衛門」より)]

鳥居耀蔵屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図左中程・藤堂和泉守の右上に酒井作右衛門邸がある、その右永田鍋太郎と藤田次郎までの新屋敷通りと下谷練塀小路の間が鳥居耀蔵屋敷跡です。鳥居耀蔵は1845年改易。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 浅草下谷本郷辺絵図 : 寛保延享之頃(1741 – 1748年)」(コマ番号3/3・絵図四つ切右上、練塀小路右に「鳥居甲斐守」と描かれています。鳥居耀蔵の養父鳥居成純。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保15年・1844年)」- (コマ番号2/3、3/3・絵図中央右方向、下谷練塀小路下の鳥居甲斐守が鳥居耀蔵屋敷です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四(天保15年・1844年)」(コマ番号95/206・当時之形左ページ中央に鳥居甲斐守と記述されています。)

カメラ東北東方向に千代田区神田練塀町案内板があります。カメラ北方向、JEBL秋葉原スクエア付近に鳥居耀蔵屋敷跡があったようです。

カメラ位置はJEBL秋葉原スクエア前で、この付近が鳥居耀蔵屋敷跡になるようです。

鳥居耀蔵
[寛政8年(1796年)11月24日、林述斎(林衡)の3男(4男説もある)として生まれる。生母の前原氏は側室であった。文政3年(1820年)、25歳の時に鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、2,500石を食む身分となる。そして11代将軍徳川家斉の側近として仕えた。
やがて家斉が隠居して徳川家慶が12代将軍となり、老中である水野忠邦天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。渋川敬直後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。
天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って洋学者の江川英龍と対立する。この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって洋学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄渡辺崋山高野長英ら洋学者を弾圧する遠因となる。天保12年(1841年)、南町奉行矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。矢部家は改易、定謙は伊勢国桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。後年の研究では、耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対するなど、その実用性はある程度認めていたことが判明している。
天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは“蝮(マムシ)の耀蔵”、あるいはその名をもじって“妖怪”(官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略した)とあだ名され、忌み嫌われた。また、この時期に北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)。天保14年(1843年)に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。
アヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川や高島秋帆らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用されるが、終始反対の立場にあった耀蔵は快く思わず、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行伊沢政義(伊沢の長男政達は耀蔵の娘と結婚)と協力して、赴任前の伊沢と事前に相談したり自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどして、高島に謀反の罪を着せた。長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島に、耀蔵が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせた。
改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名旗本の猛反発を買った際に耀蔵は反対派に寝返り、老中土井利位に機密資料を残らず横流しした。やがて改革は頓挫し、水野は老中辞任に追い込まれてしまうが、耀蔵は従来の地位を保った。
ところが半年後の弘化元年(1844年)、外交問題の紛糾から水野が再び老中として将軍家慶から幕政を委ねられると状況は一変する。水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、仲間の渋川、後藤の裏切りもあって、同年9月に耀蔵は職務怠慢、不正を理由に解任され、翌弘化2年(1845年)2月22日に有罪とされ、10月3日には全財産没収の上で讃岐国丸亀藩京極高朗に預けられる。同日、渋川も豊後国臼杵藩稲葉観通に預けられ、後藤は斬首された。伊沢も長崎奉行を罷免され、西丸留守居に左遷された(水野自身も再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居。その後水野家は出羽国山形藩に転封されている)。これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。  (wikipedia・鳥居耀蔵より)]

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