深川八幡前 平清

マーカーは深川八幡前 平清跡付近です。

[深川土橋にあった“平清(ひらせい)”は、江戸の料理屋番付では行司の位置にある高名な料理屋でした。文化年間(1804~1818)に営業を始め、明治32年(1899)に廃業したという店で、料理の評判も高かったようです。
 寺門靜軒は『江戸繁昌記』(1832)の中で平清について、店構えや食器もよく、料理は上等と大層ほめています。
 屋号の“平清”は、主人の平野屋清兵衛の名によるものですが、平家平清盛に見立てて、江戸川柳に「平清の奢(おご)りのすえもうしほなり」というのがあります。これは平家の一門が壇の浦でほろんだことと、平清の会席料理の最後に鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句です。
 潮汁は新鮮な魚貝類を用いた塩味の汁で、調味料が食塩だけなので潮汁と呼んでいます。江戸時代の料理書では潮煮ともあり、もとは実際に海水を使ったようで、『黒白精味集』(1746成立)には「潮は播州明石浦に拾間程の間 明石より流れ出る川水の潮境有 此所の塩あんばい最上也 此水にて鯛を煮候を潮煮という 外の潮は潮からくて水へ入れ候とても潮あらくして喰えず」とあります。当時の明石浦の海水の清澄さが偲ばれます。  (「江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.5「“平清”と潮汁」」より)]

[商人などの町人階級が経済力をつけるようになった明和年間(1764~72年)ころ、接待や会合に使われる場として、貸席に高級料理がつく料理茶屋が登場する。幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌、書画の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅を尽くすような料理茶屋が次々とできたが、その双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善」とこの深川の「平清」だった。「平清」は瀟洒な庭や風呂を備えた設備の豪華さや料理の質の高さで知られていた。
 「平清の奢りのすえもうしほなり」
 この有名な川柳は、「平清」を平清盛に見立てて、平家一門が奢った果てに壇の浦の潮流の藻くずと消えたことことと、平清の会席料理の最後に鯛の潮汁(うしおじる)が出されることをかけた句で、平清の料理の贅沢さがうかがえる。  (「江戸の名所「深川」④「平清」と「二軒茶屋」 – 粋なカエサル」より)]

『江戸買物独案内』画像データベース(早稲田大学)の江戸買物獨案内 上・下巻・飲食之部(飲食之部 / 内容画像12・下画右ページ左)に平清が掲載されている。

江戸高名会亭尽」(歌川広重) - 深川八幡前 平清「狂句合 平清で奢ったはてもうしほひら」(wikipedia-photo)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」(絵図四つ切左下・冨ヶ丘八幡宮と三十三間堂の間の永代寺門前町に平清がありました。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一年八月ノ形」[コマ番号2/4・絵図四つ切左下、三拾三間堂左、永代寺門前東仲町の岡場所深川土橋に平清(「江戸買物独案内」- 3巻 12p )がありました。]