爺ケ茶屋(光茶銚)

マーカーは千住新橋です。

爺ケ茶屋(光茶銚)
[千住宿内の日光道中を北進すると、右に水戸・佐倉道を分岐し、更に100m程北に進むと日光道中は左に折れた。直進すると大原・下妻道になりすぐ右手には骨つぎで有名な名倉医院がある。左に折れた日光道中は、今は荒川土手の堤防に突き当たるが、明治以前は荒川はなかったのでそのまま真っ直ぐ行き、現荒川の真ん中あたりで右に弧をえがき、今の荒川北岸の平和橋通り川田橋の信号の所に繋がり北に向かった。
大正二年(1913)から昭和五年(1930)にかけて、荒川放水路(昭和四十年(1965)からは荒川と呼称)が開削され、大正十三年(1924)に荒川を渡る千住新橋が新日光街道に設けられた。
爺が茶家の場所

旧日光道中が千住新橋と交わる辺りには茶屋石橋と呼ばれる用水路を越える小さな石橋があり、千住宿と北隣の梅田村との境界になっていた。この石橋の傍らの茶店は通称「爺が茶屋」と呼ばれた。
元文五年(1740)十二月八代将軍徳川吉宗が鷹狩りの帰途、この茶屋の店先に手入れの行き届いた茶釜が置かれていたのをみて、これに手を触れたが、そこに自分の姿が映し出されていたので、「名を残す 爺が茶屋や 照るかがみ」との即興句を詠み、翌年この句を認めた色紙を爺に手渡したという。以来茶釜は茶屋の家宝となり、光茶釜の茶屋として有名になったので、屋号は「茶釜」とし、茶屋の傍らの橋まで「茶釜橋」と呼ばれるようになった。茶釜は現存し区の文化財に指定されている。
爺が茶屋の石原家は、荒川放水路開鑿のため立ち退きを余儀なくされ、現在は千住5丁目の土手近くに移転している。
『江戸名所図会』挿絵の注記には、「光り茶銚(ちやがま) 千住の駅はなれ道の左側にあり。土人は耆老(じじ)が茶屋とも呼びあへり。むかし、この店の茶銚の光沢(ひかり)のことに勝れたりしを、重き御感賞にあづかりしより、この茶銚つひに名物となりて、その名さへ世に光(かがや)くこととはなりぬ。」とある。  (「[6巻17冊21光茶銚] – 江戸名所図グループ」より)]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「光茶銚」(17-21)、「六阿弥陀詣図」(17-22)
光茶銚(拡大図)

六阿弥陀詣図(拡大図)

カメラ位置は千住新橋で、この周辺に爺ケ茶屋があったようです。