マーカーは児童養護施設「愛児の家」です。
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児童養護施設「愛児の家」
[“愛児の家”は児童福祉法にもとづく児童養護施設です。
家庭環境などに恵まれない子供たちを養護し、育成しております。
その発足は太平洋戦争による幼い犠牲者を救うための”戦災孤児救護婦人同志会”でした。
時の流れと共にその形を変え、現在の”愛児の家”になりました。
東京の焼け跡にはクズ紙のように見捨てられた、かわいそうな戦災孤児が大勢おりました。前理事長(石綿さたよ)は戦災孤児救護婦人同志会を結成し、自宅を開放、私財のいっさいを投げ出しての孤児救護活動にのりだしたのです。
それ以前にも前理事長は支那事変から太平洋戦争にかけて、出征軍人の留守家庭や遺族の慰問、傷病兵の見舞などを積極的に行いましたが、終戦と共に、孤児救護に全力を注ぎ始めたのです。この”戦災孤児救護婦人同志会”が”愛児の家”の前身であった訳です。 (「社会福祉法人 愛児の家(児童養護施設)ホームページ」より)]
[愛児の家は70年が経った今も、児童養護施設として子どもたちを受け入れており、創設者・石綿(いしわた)さたよさんの三女・裕さん(84)が子どもたちの母親代わりをしている。戦前から事業を営み、裕福な家庭だった石綿家が戦災浮浪児の拠り所を提供しはじめたのは終戦の年の10月だ。最盛期には100人を超える浮浪児を受け入れていたという。
さたよさんについて「別荘から戻ってきて上野に着いたときに、子どもがいっぱいいて、『これは何とかしなきゃ!』って。もともと人助けをするのが好きな人だった」と話す裕さん。最初に引き取ったのは、名前しか話すことができなかった子どもだったという。
中には汚れがひどくお風呂に入るまで性別が分からない子どもや、空襲のショックからか記憶を失った子どもたちもいた。「『いくつ?』って聞いても、返事ができなかった。本当に”岡田正”という名前だけ。それも本名かどうかはわかりませんでした。でも、学校に入らなくちゃいけないので籍を作って、小学校1年生くらいかな?ということで1年生に入れた」。
さたよさんは子どもたちに戸籍を与え、学校に通わせた。運営費は私財を投げ打ち、それでも足りない分は自分の和服や宝石などを質に入れて工面した。裕さんは「朝起きたら私の洋服がないんでびっくりした。学校行こうと思ったら靴はないし。子どもたちが上野に持って行って売っちゃう。お金がなくなって、食べられなくなると戻ってきて”ごめんなさい”」と、愛情を込めて語る。さたよさんはそんな子どもたちも、いつも笑顔で迎えていたという。 (「戦争浮浪児が語る終戦72年 「妻や子どもにも言い出せなかった」上野での …」より)]
カメラ西方向が児童養護施設「愛児の家」です。