初空襲の犠牲者追悼「いのりの碑」

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マーカーは「いのりの碑」です。

初空襲の犠牲者追悼「いのりの碑」
[昭和17年4月18日の東京初空襲(ドーリットル空襲)は早稲田地域を襲いました。早稲田中学校校庭には約600人の生徒がいましたが、焼夷弾の直撃を受けた一人の生徒が犠牲になりました。同月21日に早稲田中学校講堂で報国団葬にされ、昭和19年に犠牲を悼んで碑が建てられました。終戦直後に戦意高揚に利用されたとして取り外されましたが、昭和58年に当時の旧友たちが中心なり、その生徒を偲ぶ「いのりの碑」が再び早稲田中学校に建てられました。以来、毎年4月18日になると、在校生たちによって献花が行われるようになりました。(学校施設内のため、一般の方の見学はできません。)  (「[PDF]Untitled – 新宿区」より)]

[アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日に行われましたが、それは空母から陸上爆撃機B25を発進させた奇襲攻撃で、東京には13機が来襲しました。東京では品川区の工場、荒川区尾久の住宅などが爆撃され、尾久では一家6人が焼死するという被害を受けています(東京初空襲の地)。それ以外にも牛込区の早稲田中学や葛飾区の水元国民学校高等科の生徒も銃撃により死亡しました。あわせて東京で41人が亡くなっています。  (「東京大空襲とは – 東京大空襲・戦災資料センター」より)]

[『蒼空』第10号の巻頭に掲載された、猪狩章氏の「ドゥリトル東京初空襲の日、先輩は校庭で直撃弾を受けた」から、引用してみよう。
『二か月前の二月十八日、「大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会」(シンガポールの戦い#戦勝記念式典)が開かれ、酒・菓子・あずきなどの「特配」を受けていた人々は、白昼、突然低空で現れたB25を、まさか空襲の米軍機とは思わなかった。/東京周辺に向かった十四機中、十三番機が横須賀軍港を攻撃し、残り十三機が東京上空に侵入した。それらは荒川、王子、小石川、牛込、品川、葛飾と分れた。牛込方面に飛んだ一機は、爆撃しやすい目立つ建物を探していた。そして、「それ」が視野に入った。早稲田大学大隈講堂である。/機は大隈講堂に接近すると焼夷弾を投下した。しかし、乗員の練度が低かったのだろう、弾は南へ二百メートルほどずれ、隣接する早稲田中学校の校庭に落下、炸裂した。たまたま校庭に出てきた四年生(旧制)の小島茂さんが即死した。東京初空襲、その初の死者であった。』
『蒼空』10号掲載の猪狩氏作品から引きつづき引用してみよう。
『去る【2014年】五月二十二日、私たち早稲田中学校五十八回卒業生の喜寿記念同期会が開かれ、ひさしぶりに母校を訪れた。そして、構内の芝生の上に「いのり」と題された碑を見つけた。天に向かって身もだえするような、小島さんの旧友工芸作家【洋画家・佐竹伊助】による造形である。/説明文を読むと、碑は小島さんの同期四十六回生たちの努力でつくられ、小島さんの死からちょうど四十一年後の昭和五十八年(一九八三年)四月十八日、同じような青空の下、除幕式と記念の会が行われた。私たちの恩師で、式当時教頭をされていた橋本喜典先生は<「いのり」の碑によせて>として、
 青空を裂きて降りし焼夷弾に少年殺されぬ
 この校庭に
 生きて居らば五十七歳
 校庭の隊伍の中に居らずや君は
 と詠み、悼んだ。』 (「誤爆だらけのドーリットル隊初空襲。:落合道人 Ochiai-Dojin:So-netブログ」より)]

米軍による本土初空襲から74年 生徒犠牲の早稲田中で追悼式(THE …」、「空襲日記 » Blog Archive 空襲日記 | 東京初空襲

カメラ北東方向が「いのりの碑」が設置されている、早稲田中学校・高等学校です。「いのりの碑」の設置場所は学校構内ですので、碑訪問には学校の許可をもらってください。

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