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[早稲田西口を出て、「早稲田前交差点」から夏目坂をのぼりかけたすぐ左手に『夏目漱石誕生之地』と刻まれた黒御影石の記念碑が建てられています。
昭和41年、漱石の生誕100年を記念して建てられ、文字は遺弟子である安倍能成氏によるものです。
漱石は慶応3年(1867年)1月5日(新暦の2月9日)、この地に生まれました。現在の喜久井町1番地です。誕生の地から若松町の方へと上る坂を「夏目坂」と命名したのは、漱石の父・直克です。このことは、漱石自身が随筆「硝子戸の中」に書いています。江戸幕府が開かれる前から牛込の郷土として土着していた夏目氏は、元禄期以降、馬場下の名主を世襲していたため、町名を当家にゆかりのあるものとしました。 (「夏目漱石誕生の地 | 一般社団法人新宿観光振興協会」より)]
[1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
漱石の祖父・夏目直基は道楽者で浪費癖があり、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。
金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。
その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。 (wikipedia・夏目漱石より)]
「夏目漱石誕生の地碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ東方向電柱右に夏目漱石生誕の地碑があります。