小泉八雲記念公園

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マーカーは小泉八雲記念公園です。

小泉八雲記念公園
[明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシャレフカダ町に生まれ、現在の新宿区大久保1-1でこの世を去りました。新宿区とレフカダ町は、この縁をもとに相互に交流を重ね、理解と友情を深めるため、平成元年(1989)10月有効都市となりました。
 新宿区は、この度、小泉八雲が没したこの地に小泉八雲記念公園をつくりました。この公園の設計に当たっては、コンスタンティノス・ヴァシス駐日ギリシャ大使並びにスピロス・マルゲリス・レフカダ町長から詳細な助言をいただき、ギリシャ風の公園として整備しました。
 ギリシャの雰囲気を出すため、古代の柱や集会場(アゴラ)をイメージした広場、中世風の建物、近代のイメージとしての白い壁などを設けました。
 この公園が、日本を世界に紹介した小泉八雲を偲ぶ場所となり今後、新宿区とレフカダ町の友好がより一層深まることを願います。
 平成5年(1993)4月 新宿区長 小野田隆  (「東京都新宿区の歴史 小泉八雲記念公園」より)]

小泉八雲
[小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 – 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO’Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
1896年(明治29年)に日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗る。「八雲」は、一時期島根県松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。 日本の怪談話を英語でまとめた『怪談』を出版した。
1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日。来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚。
松江・熊本神戸東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺した。日本では『雨月物語』『今昔物語』などに題材を採った再話文学で知られる。
日本での略歴
●1890年 – ネリー・ブライと世界一周旅行の世界記録を無理やり競わされた女性ジャーナリストのエリザベス・ビスランド(アメリカでのハーンの公式伝記の著者)から旅行の帰国報告を受けた際に、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかを聞き、ハーンが生涯を通し憧れ続けた美女でもあり、かつ年下ながら優秀なジャーナリストとして尊敬していたビスランドの発言に激しく心を動かされ、急遽日本に行くことを決意する。なお、来日の動機は、このころ英訳された古事記に描かれた日本に惹かれたとの説もある。
ハーバー・マガジンの通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバーに立ち寄り、4月4日横浜港に着く。その直後、トラブルにより契約を破棄する。
  ●7月、アメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)の斡旋で、島根県尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に任じられる。
  ●8月30日、松江到着。
●1891年
  ●1月 – 中学教頭西田千太郎のすすめで、松江の士族小泉湊の娘・小泉セツ(1868年2月4日 – 1932年2月18日)と結婚する。同じく旧松江藩士であった根岸干夫が簸川郡長となり、松江の根岸家が空き家となっていたので借用する(1940年、国の史跡に指定)。
  ●11月、熊本市の第五高等学校熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師となる。熊本転居当時の家は保存会が解体修理を行い、小泉八雲熊本旧宅として復原され、熊本市指定の文化財とされた。
●1894年 – 神戸市のジャパンクロニクル社に就職、神戸に転居する。
●1896年 – 東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。日本に帰化し「小泉八雲」と名乗る。秋に牛込区市谷富久町(現・新宿区)に転居する(1902年の春まで在住)。
●1902年3月19日 – 西大久保の家に転居する。
●1903年 – 東京帝国大学退職(後任は夏目漱石)。
●1904年3月 – 早稲田大学の講師を務め、9月26日に狭心症により東京の自宅にて死去、満54歳没。墓は東京の雑司ヶ谷霊園
雑司ヶ谷霊園の墓・wikipedia-photo  (wikipedia・小泉八雲より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [20]拾九貞」(コマ番号2/13・地図中央の左下方向稲荷社地別当大乗院(鬼王神社)と描かれ、その左下方向・西大久保村 畑地が晩年小泉八雲が転居した場所になります。]

小泉八雲終焉の地 – Google Map 画像リンク」、「小泉八雲記念公園 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が小泉八雲記念公園です。

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