戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷)

マーカーは戸山公園です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で山手線東側、射撃場右の陸軍戸山学校敷地が戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷)になります。射撃場と陸軍戸山学校敷地の間を縦断する道路が明治通りぐらいになります。

戸山山荘跡
[戸山公園(とやまこうえん)は、東京都新宿区にある都立公園である。明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に分かれている。地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがる。
当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家下屋敷であった。2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた。寛政年間には11代将軍徳川家斉の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であった。この頃の戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻が現存している。その後は数度の火災や水害により荒廃したが、尾張藩の財政難などもあり復興されなかった。明治維新後、戸山山荘は明治政府に明け渡される。跡地には1873年(明治6年)に陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用された。戦後、軍事施設はすべて廃止された。1949年(昭和24年)、跡地に戸山ハイツの建設が開始され、1954年(昭和29年)には敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した。  (wikipedia・戸山公園より)]

[現在の戸山ハイツ一帯は、江戸時代徳川御三家の一つの尾張徳川家下屋敷で、戸山山荘といった。この下屋敷は尾張家二代藩主徳川光友済松寺開祖祖心尼から土地を譲られ、寛文8年(1668)に着工。 総坪数は十三万六千余り(約四十五平方メートル)で、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸徳川家後楽園と並ぶ名園であった。寛政2年(1790)、十一代徳川家斉を迎えたとき大修築を行い、その直後、谷文晁にその景色を絵巻に描かせており、文人画風の折本帖として伝えられている。また、当時の文化人として有名な大田南畝も、寛政5年(1793)、招かれて見物しており、そのときの模様を随筆『半日閑話』に記している。その後の享和天保安政年間に相次いで火災や風水害にあい、再び荒廃。とくに安政6年(1859)の青山大火で類焼した後は復興されなかった。そして陸軍戸山学校となり、太平洋戦争の終わるまで存続。昭和24年、現在の戸山ハイツの最初の千戸分が建設され、その後増設されて今日に至る。 現在、当時の庭園の一部であった「箱根山」と呼ぶ築山が残っている。  (「戸山山荘跡 – 新宿観光振興協会」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図」(絵図右上に・戸山尾刕殿(尾張徳川家)下屋敷と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [16]拾九亨」(コマ番号3/13・絵図は東が上になっていますので、90°回転して北を上にするとわかりやすいです。90°回転して中央付近に誓閑寺が描かれ、その左方向が尾州外山屋敷です。

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞」(コマ番号3/13・絵図は東が上になっていますので、90°回転して北を上にするとわかりやすいです。90°回転して尾州外山屋敷の左の道は、一部現在の明治通りに沿うように残っています。道路の左側が現在の大久保二丁目・三丁目になります。)

戸山公園入り口前のカメラです。

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