マーカーは箱根山です。
関連リンク – 尾張藩徳川家上屋敷跡(防衛省)、尾張徳川家中屋敷跡、尾張徳川家中屋敷跡(東京女子医大)、戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷跡)、尾張徳川家下屋敷跡(日本経緯度原点)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で山手線東側、射撃場右の陸軍戸山学校敷地が戸山山荘跡(尾張藩徳川家下屋敷)になります。射撃場と陸軍戸山学校敷地の間を縦断する道路が明治通りぐらいになります。
戸山山荘跡(箱根山)
[現在の戸山ハイツ一帯は、江戸時代、徳川御三家の一つの尾張徳川家の下屋敷で、戸山山荘といった。この下屋敷は尾張家二代藩主徳川光友が済松寺開祖祖心尼から土地を譲られ、寛文8年(1668)に着工。 総坪数は十三万六千余り(約四十五平方メートル)で、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸徳川家の後楽園と並ぶ名園であった。寛政2年(1790)、十一代徳川家斉を迎えたとき大修築を行い、その直後、谷文晁にその景色を絵巻に描かせており、文人画風の折本帖として伝えられている。また、当時の文化人として有名な大田南畝も、寛政5年(1793)、招かれて見物しており、そのときの模様を随筆『半日閑話』に記している。その後の享和、天保、安政年間に相次いで火災や風水害にあい、再び荒廃。とくに安政6年(1859)の青山大火で類焼した後は復興されなかった。そして陸軍戸山学校となり、太平洋戦争の終わるまで存続。昭和24年、現在の戸山ハイツの最初の千戸分が建設され、その後増設されて今日に至る。 現在、当時の庭園の一部であった「箱根山」と呼ぶ築山が残っている。 (「戸山山荘跡 – 新宿観光振興協会」より)]
[緑豊かな都立『戸山公園』は、『箱根山』を中心とした一帯が桜の名所といわれています。『箱根山』は新宿区で一番高い山で、頂上からは新宿の高層ビルを一望できる絶好の展望ポイントですが、高さはわずか44.6メートルです。もとは尾張徳川家の下屋敷で、通称「戸山山荘」といわれていました。総坪数は13万6000坪あまりで、回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、小石川の水戸家の後楽園とならぶ名園でした。やがて明治維新を迎えて陸軍戸山学校となり、第二次世界大戦終結まで存続しました。現在は、当時の庭園の一部であった築山の『箱根山』が残っています。また、当時の様子を描いた絵巻も、谷文晁や加納派の画家の描いたものなどが残されています。 (「新宿区観光協会ホームページ – 高田馬場あたり – 戸山公園」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図」(絵図右上に・戸山尾刕殿(尾張徳川家)下屋敷と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [16]拾九亨」(コマ番号3/13・絵図は東が上になっていますので、90°回転して北を上にするとわかりやすいです。90°回転して中央付近に誓閑寺が描かれ、その左方向が尾州外山屋敷です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞」(コマ番号3/13・絵図は東が上になっていますので、90°回転して北を上にするとわかりやすいです。90°回転して尾州外山屋敷の左の道は、一部現在の明治通りに沿うように残っています。道路の左側が現在の大久保二丁目・三丁目になります。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東京市牛込区全図(出版年-1907)」(地図中央左に・牛込下戸塚町の陸軍外山学校敷地が尾張藩徳川家下屋敷になります。)
カメラ東南東方向が箱根山西口です。
戸山山荘跡(箱根山)山頂からの桜です。