マーカーは松山藩板倉家下屋敷跡です。
関連リンク – 備中松山藩板倉勝静上屋敷跡、松山藩板倉家中屋敷跡
[牛込区には、明治の一時期、「市谷監獄」と「東京監獄」が並ぶようにあった。「市谷監獄」は江戸期の日本橋にあった「伝馬町牢屋敷」を前身とし、1875(明治8)年に市谷へ移転、「市谷谷町囚獄役所」となり、1903(明治36)年に「市谷監獄」へ改称。1910(明治43)年に豊多摩郡野方村(現・中野区)に移転し、「豊多摩監獄」となった。
「東京監獄」は1903(明治36)年、「東京駅」建設のため鍛冶橋より牛込区市谷富久町(現・新宿区富久町、「市谷監獄」の西側)に移転。1922(大正11)年に「市谷刑務所」と改称された。当初は未決囚を拘置していたが、のちに死刑囚の収監と処刑も行うようになり、1911(明治44)年には幸徳秋水ら「大逆事件」の死刑囚の処刑も行われた。1937(昭和12)年、「巣鴨刑務所」の跡地に移転し「東京拘置所」と改称されている。江戸時代の「市谷監獄」「東京監獄」の場所は、それぞれ概ね松山藩板倉家、田中藩本多家の下屋敷であった。
現在、「市谷監獄」跡地は市谷台町一帯で都道などになっている。「市谷刑務所」の跡地は「東京都立総合芸術高等学校」などになっており、「富久町児童遊園」には「刑死者慰霊塔」(写真)が建てられている。 (「4:陸軍と近代産業 ~ 四谷・牛込 | このまちアーカイブス …」より)]
板倉勝弼
[板倉 勝弼(いたくら かつすけ)は、板倉勝喬(備中国松山藩4代藩主板倉勝政の十一男)の四男として誕生。
初め、江戸で僧侶になる予定であったが、先代藩主の勝静が明治元年(1868年)の戊辰戦争で、旧幕府軍に最後まで忠義により与して箱館まで転戦したため、松山藩は新政府の追討を受けることとなった。そこで、藩の執政山田方谷は勝弼を連れ出して新藩主に迎えることとし、川田剛を使者として迎えに行かせた。
当時の松山藩は朝敵の立場であり、藩関係者への新政府の監視の目は厳しかった。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かったが、途中で新政府軍の兵士に発見された。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士たちも驚いて通行を許可したため、備中松山に無事到着したと言われている。
明治2年(1869年)2月、新政府から処罰として所領を5万石から2万石に減らされた上で、勝弼の家督相続が認められた。同年10月に松山を高梁と改名し、11月に知藩事となる。明治4年(1871年)2月、新政府の命令で東京へ赴き、そのまま同年7月の廃藩置県で免官となった。
勝弼の板倉家相続の際、後日のお家騒動を防ぐため、重臣たちが勝弼に対して「板倉勝全(勝静の嫡男で父に同行していた)が松山に戻った時には必ず家督を勝全に譲る」という起請文を書かせていた。後日、新政府から赦免された勝静がこれを聞くと、「勝全は朝廷から咎めを受けた身であり、板倉家を継がせることはできない」と言って、勝弼から起請文を取り上げると、居並ぶ重臣たちの前でこれを破り捨て、改めて勝弼への忠誠を誓わせたと言われている。 (wikipedia・板倉勝弼より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切左下・自証院下に板倉周防守(板倉勝静)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号5/5・絵図中央右上に板倉周防守(板倉勝静)下屋敷が描かれています。)
「東京市拾五区区分全図 第十 牛込区全図」(地図四つ切左下・市ヶ谷町の官獄署が松山藩板倉家下屋敷跡になります。)
カメラ位置は台町坂交差点で、カメラ位置周辺一帯が松山藩板倉家下屋敷跡になると思います。