マーカーは母里藩松平(越前)家下屋敷跡です。
関連リンク – 母里藩松平(越前)家上屋敷跡(駐日ブラジル連邦共和国大使館)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP941・コマ番号514/553から母里藩屋敷の変遷について記載されています。P942・コマ番号515/553「下屋敷 内藤新宿」がこの地になります。
松平直温
[松平 直温(まつだいら なおより/なおはる)は、文政13年(1830年)3月24日、美作津山藩の第7代藩主松平斉孝の五男として生まれる。天保11年(1840年)4月26日、出雲母里藩の第8代藩主松平直興の婿養子となる。天保14年(1843年)9月13日、直興が病気により隠居したため家督を継いだ。官位は従五位下、志摩守。
安政3年(1856年)9月21日に死去した。享年27。跡を長男の直哉が継いだ。 (wikipedia・松平直温より)]
松平直哉
[松平 直哉(まつだいら なおとし)は、嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる。安政3年(1856年)に父が死去したため家督を継いだ。元治元年(1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府に懇願して10万石の格式を許されている。
明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里知藩事に任じられ、明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で知藩事を免職されて東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。 (wikipedia・松平直哉より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切左上に松平出羽守下屋敷が描かれていますが、出羽守ではなく志摩守(松平直温)の間違いではないかと思います。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号2/5・絵図中央太宗寺下に松平志摩守(松平直温)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は新宿二丁目北交差点で、カメラ北方向道路を含む両サイドが母里藩松平(越前)家下屋敷跡になると思います。