マーカーは水稲荷神社です。
水稲荷神社
[水稲荷神社(みずいなりじんじゃ) とは東京都新宿区西早稲田に鎮座している神社である。旧称冨塚稲荷と命名されたが元禄15年、霊水が湧き出し、水稲荷神社と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。 甘泉園公園に隣接しており、境内にある高田藤塚は江戸中最古の富士塚の移築である。
歴史
●941年(天慶4年) – 藤原秀郷が冨塚の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷と命名。
●1702年(元禄15年) – 神木の椋の根元より霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名。
●1788年(天明8年) – 「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。
●1963年(昭和38年) – 早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家の下屋敷)である現社地に遷座。
参道入口(東側)・wikipedia-photo
拝殿・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、水稲荷神社_(新宿区)の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・水稲荷神社_(新宿区)より)]
[宝泉寺の北側、早稲田大学九号館のあたり(旧水稲荷神社境内)には、高田富士塚と呼ばれる江戸の名所がありました。江戸時代中期以降、江戸では富士信仰がさかんとなり、各地で「富士塚」という模造富士がつくられました。なかでも高田富士は江戸で一番古く、安永8年(1779年)に、高田村の植木職・高田藤四郎が手がけました。高田富士塚は、早稲田大学が昭和38~39年に当時の水稲荷神社の社地を購入したため崩されて、区立甘泉公園のわきに移転した現在の水稲荷神社境内で復元されました。高田富士塚が移転した跡には、早稲田大学九号館の高層ビルがそびえたっています。 (「水稲荷神社 – 新宿観光振興協会」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図右上方向・井伊掃部頭下屋敷左に水稲荷神社が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [18]拾九利(嘉永五年・1852年)」(コマ番号3/7・地図中央右下方向に水稲荷社地別當寶泉寺と描かれています。)
「東京都立図書館アーカイブ – 東京府北豐島郡高田町豐多摩郡戸塚町(出版年-1920.9)」(地図四つ切右下・早稲田大学の下に移転前の水稲荷神社が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「高田稲荷神泉守宮池寶泉寺」(11-55)、「高田稲荷明神社解説・右ページ6行目より左ページ4行目まで」(11-56)、「高田富士山解説・左ページ5行目から」(11-57)
高田稲荷神泉守宮池寶泉寺(拡大図)
[図会右下に宝泉寺が描かれています。]
[水稲荷神社は、『江戸名所図会』に描かれた当時、「高田稲荷」とよばれていました。中央付近の小高い丘の上にあるのが、水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。右上の山は、高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに、昭和38年(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。 (「神社のご案内 | 早稲田水稲荷神社」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山吹の井」(12-7)、「山吹の里三島山解説・右ページ左から5行目より」(12-5)、「三島山解説・右ページ3行目まで」(12-7)
山吹の井(拡大図)
[相伝ふ。右大将軍頼朝卿、此の高田の地に軍兵勢揃在りし頃、此の御神を勧請せし給ふ伝々。この山岸に少し計りの甘泉あり、これを山吹の井と呼べり、土人或は三島明神(水稲荷神社境内摂社)の御手洗、又は頼朝卿のうまの冷やし場なりともいひ伝へたり。 (「頼朝伝説、堀部安兵衛の鎌倉街道を行く1(新宿区編)」より)]
絵本江戸土産 – 高田富士山(拡大図)
「水稲荷神社 鳥居 – Google Map 画像リンク」、「水稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「三島社 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向が水稲荷神社参道です。
カメラ西方向が水稲荷神社拝殿です。