マーカーは蓮華寺です。
泉光山蓮華寺
[日蓮宗の寺。池上本門寺末。早稲田通りから北西へ入った路地の傍に朱塗りの山門が建っている。鬱蒼とした樹林に囲まれた境内には自然の湧水池があり、時には水鳥を見ることができる。本尊は宗祖奠定の十界曼荼羅。
万治元年(1658)本門寺14世日優上人によって小石川関口台に開基された。3代将軍徳川家光の側室お楽の方が出産に悩み、諸寺に祈願したが、その効き目がなかった。そんな時お楽の方の母泉光院(増山氏)は日優上人に祈願を願い、それによりお楽の方は安産することができた。この時生まれた子どもが4代将軍徳川家綱だ。このこと以来お楽の方や泉光院は日優上人に帰依し、この寺を建立した。こうした関係で泉光院をはじめ増山家累代の墓、お楽の方の父七沢左衛門清宗の墓がある。
明治41年現在地に移転した。現在寺門に掲げられている「泉光山」の額は細井広沢の筆になるもので、広く知られている。本堂の左前に「山荘の碑」というのが屋根付きで建っている。なお同じ日蓮宗で同名の寺が江古田にある。
●山荘の碑
本堂の左脇の木陰にある。山荘は山屋敷・切支丹屋敷ともいわれ、キリスト教徒を禁固した初代切支丹奉行井上筑後守政重の別邸(現、文京区茗荷谷)をいう。切支丹屋敷は、寛永20年(1643)に密入国した伴天連(ばてれん=布教者)のうち、マルケスやキアラほかの棄教者を収容し、宗門改めなどの情報を集めたことに始まる。新井白石が、密入国で収容されたシドッティを訊問して「西洋紀聞」を書いたことは有名だ。シドッティは鎖国の理由となった侵略説を否定、近代科学への目を開かせるなど、白石に大きな影響を与えた。江戸時代には厳しくキリシタンの禁制が行われていたが、遊女浅妻は、キリシタン信者の罪で囚われの身となっていた。しかし牢屋での生活は他の罪人の模範となるような毎日を過ごしていた。牢役人や牢番は、この健気な姿に打たれ、処刑日の前日、願い事を訪ねた。すると「一目、桜を見たい」答えたので、牢屋敷の庭に咲いていた桜を見せてやったところ大変に喜び、翌日処刑されたという哀話が残されている。碑は、この話を伝え聞いた間宮信士がこの哀話を撰文してして、屋敷が大江政晴のものとなった文化7年(1810)に獄死した人びとを悼んでで建てられたもの。この碑は、わが国の文化史上重要な遺跡を物語る。のちにこの寺に移され、寺とともにこの地に移ってきた。 (「町内案内5000 | わたしのブログ by 大和町2丁目 – 楽天ブログ」より)]
カメラ北北西方向が泉光山蓮華寺の山門です。