番衆町

マーカーは番衆町です。

番衆町
[大久保周辺には百人組を初めとして組屋敷や御家人屋敷が多い。たとえば、大久保百人町慶長7年、百人衆伊賀組鉄砲同心が組屋敷として拝領したと伝えられる。彼らは生活補助のために内職をしたが、組屋敷では屋敷がまとまって同じ職種を請け負うことが行われた。そこから特産品が生まれていった。たとえば、大久保は鉢植えの躑躅栽培である。  (「江戸切絵図散策」より)]

[自證院坂の標は見つかりませんでした。坂下は靖国通りに面しており、市谷富久町バス停付近にある”成女学園”東側から北へ上がる狭い傾斜のある坂道です。坂上には自証院があり、江戸時代には坂に沿って門前町があり、また自證院自身も非常に大きな敷地を持ったお寺だったようですが、今は坂上の一角のみとなっているようです。この辺は「江戸切絵図集成」の書かれた時代では”安保坂”はなく、市谷御門方向からの靖国通りは自証院前(このころの自證院は今の靖国通りに面していた。)辺りで自證院坂方向と”茗荷坂”に分かれていて茗荷坂側の道が今の靖国通りで道には”表番衆町”と書かれており、自證院坂側の通りは”裏番衆町ト云”と書かれた道になっています。
この坂の標には『坂名の由来はさだかではないが、近吾堂版の「切絵図」(「大久保戸山高田辺之図」には「俗名カムロ坂」とあり、江戸時代後期には「かむろさか」と呼ばれていたことがうかがえる。』と書かれています。坂は靖国通り安保坂下、富久交番前あたりから斜めに入っていく細い道にあり、坂下には”小泉八雲”の旧居跡があり、坂下からゆっくりと左にカーブしながら傾斜も少なくなだらかに上っています。訪れた時には坂道の両側が工事中で全く趣のないメインの通りからの裏通り的な様相の坂道です。「江戸切絵図集成」にあるこの辺りは 自證院前を通る”裏番衆町ト云”と書かれた道で、近江屋版に”△里俗カムロ坂”の名前がみられます。また 自證院の前には川が書かれていて、「今昔 東京の坂」には”蜘蛛切坂”の由来は渡邊綱の土蜘蛛退治から因むものであり、”禿坂”の禿は河童を意味する。とありこの川に河童が住んでいたのでしょうか?切絵図の「大久保繪圖」にあるこの辺一帯は小さいながら(と言っても大名屋敷であって面積は大きい。)の大名屋敷や武家屋敷が密集して建っているあまり人通りのないさみしい道であったのではと想像します。  (「yeddo-aruki」より)]

[表番衆町が靖国通り、裏番衆町が医大通りになります。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図左上に表番衆町、裏番衆町ト云と描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 大久保戸山高田辺之図(近吾堂 [近江屋吾平]・出版年-嘉永4[1851]改正)」(絵図中央左・自証院上右に里俗カムロ坂、左にミヨウガ坂が描かれています。

国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号3/5・絵図四つ切右下、御百人組左、自証院、源慶寺から松平出羽守下屋敷までが番衆町になります。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元(嘉永五年・1852年)」(コマ番号2/5・絵図中央太宗寺下の松平志摩守(松平直興)下屋敷の左方向が番衆町で、上の道に表番衆町、下の道に裏番衆町と記述されています。コマ番号3/5・絵図四つ切右下自証院上に源慶寺が描かれ、その右方向が番衆町になります。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。1896~1909年地図で濱野邸と安保邸の間に番衆町が描かれています。濱野邸は松平志摩守下屋敷跡で、安保邸は源慶寺西側の番衆町になります。

カメラ位置は天神小南交差点で、カメラ南東方向が番衆町で、左道が裏番衆町通りになります。また、カメラ南南西方向に松平志摩守下屋敷がありました。

カメラ位置は富久町西交差点で、カメラ北西方向が番衆町で、左道が表番衆町通りになります。カメラ東方向が安保坂で江戸時代にはありませんでした。カメラ南東方向に源慶寺が見え、源慶寺右の道が茗荷坂になります。

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