お経塚(経塚地蔵)

マーカーは経塚地蔵です。

お経塚(経塚地蔵)
[江古田・沼袋原の合戦とは、室町時代後期の文明9年(1477年)4月に豊島泰経太田道灌との間で行われた戦いです。この合戦が行われたと云われる現在の中野区江古田・沼袋地域には、戦いによる戦死者を葬ったといわれる「豊島塚」の言い伝えが多く残されています。
 画像は、中野区江古田2丁目に所在する「お経塚」の跡地を南西から見たところです。この場所にもかつて「豊島塚」であるとされる塚が存在したといわれています。塚は、大正時代の道路工事の際に砂利置き場にするために削平されていますが、この際に人骨と茶筒形をした金属製の筒が出土したといわれています。この筒は、道路の側に置いておいたところ誰かに持ち去られてしまったといわれており、残念ながら現存しないのですが、これは人骨を供養するために埋められた経筒ではないかと考えられており、この塚が豊島塚であるという根拠となっているようです。また、豊島塚説以外にも、東福寺の火災により焼けた経文などの灰を埋めた塚であるとの説もあるようですが、これはこの塚が東福寺所有の土地であったことと人骨や経筒が出土したことによる、大正時代以降の解釈であると考えられているようです。
経筒の出土により「お経塚」と呼ばれるようになったこの塚は古い記録によると「古塚」と記されており、東福寺の持ちで二十坪の敷地は除地となっていたようです。塚の跡地は現在小公園となっており、いつでも見学することが出来ます。
 塚は完全に消滅して敷地内は平らにならされており、往時の面影は見られないようですが、塚上に立てられていたとされる、江古田村念仏講中による元文三年(1738)八月建立の地蔵尊と、安永五年(1776)六月建立の馬頭観音が元の位置に戻して祀られています。
敷地内には中野区教育委員会による説明板が設置されており、次のように書かれています。
『 お経塚
 大正時代までは、左の写真にあるように人の背丈ほどの塚でした。
 大正時代に塚の盛り土を整地したとき、人骨とともに経筒らしいものが出土したという記録があります。
 言い伝えでは、東福寺が火災で焼けたときの経文や過去帳などの灰を埋めて塚を造ったと言われています。
平成五年三月
        中野区教育委員会』  (「古墳なう 「お経塚」」より)]

豊島塚
[江古田原古戦場付近には、この合戦の戦死者を葬ったとされる「豊島塚」が点在していたとされ、一部は現在も名残りを留めている。
1.四ツ塚(中野区・新井薬師通りと新青梅街道を挟んだ4か所)=現在は店舗および道路。
西北側の塚を崩した際には兜・腐った刀・人骨、南東側の塚からは馬の骨が多数出土したが、何も出土しなかった塚もあったという。
2.金井塚(中野区江原町1-9〜11付近)=現在は宅地。
かつて直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚であったとされる。
3.稲荷塚(中野区江原町1-44)=現在は神社社地。
現在、須賀稲荷神社が奉られている付近にあったとされる塚。
4.お経塚(中野区江古田2-14)=現在は公園地。一部現存。
「北方にある東福寺が焼けた際に経文や過去帳の灰を埋めて築いた」とされるが、塚を崩した際には銅筒と人骨が出土。地元では古くから「豊島塚」の一つとされていた塚。

5.古塚(中野区江古田2-21)=現在はアパート。
かつて25坪ほどの小高い藪地で、地元では「馬捨場」と呼ばれていた。「稲荷塚」の別称もあり、狐が住んでいたため「狐塚」と表記されていたとの話もある。人骨が出土。
6.丸山塚(中野区沼袋2-40)=現在は公園地。
現在、公園の一角に戦没者供養碑と「豊島二百柱社」が建つ。かつては道を隔てて向かいの地蔵尊付近からも人骨が出土したという。
7.金塚(中野区江古田4-41-8)=現在は宅地。「金塚」碑のみ現存。
合戦後に村人が戦死者の鎧・兜・刀などを埋めたことからこの名が付いた(一説には「豊島方が武具を捨てて逃げた」ともされる)という、元は直径3メートル、高さ1.5メートルほどの塚。塚を崩した際にはリヤカーで数台分の人骨が出土しており、その遺骨は北方の正覚院に改葬されている。遺骨の量や塚の分布の中心であることから、付近は最大の激戦地であったと考えられる。
8.蛇塚(中野区丸山1-28)=現在、中野北郵便局前歩道。
元は高さ1.5メートルほどの塚。環状7号線工事の際に消滅。
9.大塚(中野区野方6-18)=現在は宅地。
別名「首塚」。道灌が戦闘に勝利した後に平右衛門尉らの首実検を行い、そののち首を埋めたところと伝えられる。名前の通り豊島塚では最大のもので、高さは5メートル近くあったという。塚を崩した際には遺骨、折れた刀、「十二月廿二日」銘の板碑2片が出土。
10.武蔵野稲荷神社古墳(練馬区栄町10)=現在は神社社地。
塚上には社殿が建てられているが、鎮座の年代は不詳。塚はその形から「瓢箪塚」「割塚」(後部が二つに割れているため)、また昔は白狐が十数匹棲んでいたことから「白狐塚」と呼ばれていたという。当時の道筋や他の豊島塚からも離れているため、「豊島塚ではない」とする説もある。  (wikipedia・江古田・沼袋原の戦いより)]

お経塚 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が経塚地蔵です。