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西大久保村(御箪笥通り)
[徳川家康は江戸入りした翌天正十九年(一五九一)大久保あたりで狩りをした時、大箪笥(おおたんす)奉行の榊原小兵衛を召して、この近隣に組の者二十五人の屋敷地と給地(きゅうち)(領地)を与えた。そして、来年は朝鮮出兵があり、長期間の留守が考えられるので後に残る妻子のために、屋敷は間口を狭く裏行きを長く設けるようにと申し渡した。近隣が協力しあうためである。
この場所は西大久保村(現在の大久保一丁目、二丁目、三丁目、歌舞伎(かぶき)町二丁目)にあたり、御箪笥通り(大久保通り)に面して両側に屋敷を設け、北は諏訪通りまで、南は文化センター通りからミラノ座北側に至る通り、東は戸山ハイツ(尾州外山屋敷)西側の通り、西は大久保一丁目の全龍寺西側の通りまで、という途方もなく広大である。個々の屋敷は、間口は十二~十五間、奥行き三百五十間~四百間、坪数は五千~六千坪という帯状、屋敷の後部は手作場と称する同心手作りの農耕地にしていた。幕臣は農耕することを公式には許されていなかったので特例といえる。この特例は家康の声掛かりによるものであり、同時に通りに面して商いをすることも許されている。しかし、時代が下るにしたがって同心の移動により、明屋敷地は代官支配地になり、また、手作場も百姓に任せるようになっている。この百姓は目代(もくだい)百姓といって特に村名主の支配外という特権を与えられていた。
ところで、一般に多くの旗本は給与として知行地(領地)を拝領しているが、旗本以下の御家人(ごけにん)(同心も含まれる)は蔵前の幕府米蔵から米を貰っている。しかし、鉄砲玉薬(たまぐすり)同心たちは西大久保村の他に家康から特に給地(旗本の領地を知行地というのに対して、御家人の場合は給地という)を拝領している。東大久保村(九十石余)・戸塚村(三十一石余)・諏訪村(七十二石余)・源兵衛村(五十二石余)・本郷村(中野区、二百二十七石余)の五ヶ村に西大久保村(六百四十三石余)を含めて千百十五石余である。
榊原小兵衛が大箪笥奉行に就任した時期は明確ではないが、同心五十人が付属され、鉄砲、玉薬(火薬)の管理、運搬をし、慶長十六年に亡くなると、子息榊原九郎兵衛が跡を継いでいる。次いで組は同心二十五人づつに分かれて二組となり、朝夷(あさい)市平・奥山茂左衛門(子安重(やすしげ)は家光の死去の際に殉死)が奉行に就任、寛永九年(一六三二)職制改革によって大箪笥奉行は鉄砲玉薬奉行と変わり、塩硝蔵(えんしょうぐら)(火薬庫)の管理、玉薬の製造運搬に携わるようになった。 (「大久保の鉄砲玉薬組 – 新宿法人会」より)]
大久保箪笥町
[新宿区内には、江戸時代に「箪笥(たんす)町」と呼ばれた町が三箇所あった。大久保箪笥町・四谷箪笥町・牛込箪笥町である。大久保箪笥町は鉄砲玉 薬同心の組屋敷のあった大久保、四谷箪笥町は大久保の組屋敷と同時に鉄砲玉薬同心二十五人が拝領した所であったが、町人に貸地するのが許されて町地化し、同心の屋敷が僅かに残るのみとなった三栄町の東部、牛込箪笥町は具足奉行組や弓矢槍奉行組同心たちが拝領した屋敷地であったが、四谷箪笥町と同様に町地となり、ここのみが現在も箪笥町と呼ばれている。もともと「箪笥」とは現在のように物を収納するものではなく、武器一般を指していたようである。 (「公益社団法人 新宿法人会 – 新宿歴史よもやま話 第13回」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [20]拾九貞」(2/13・全龍寺の左道が現在の大久保通りで、中央が現在の職安通り、右の道が区役所通りで、全龍寺の上方向と左方向が同心給地になります。3/13・尾州外山屋敷下が同心給地になります。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [19]拾九貞」(53~55/137・全龍寺右が同心給地になります。59,60/137・同心給地の絵図です。)
カメラ位置は御箪笥通りで、現在の大久保通り/区立大久保小学校前通りです。