高田馬場

マーカーは高田馬場説明板です。

高田馬場
[1636年、徳川三代将軍徳川家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営された。一説に、この地が徳川家康の六男で越後国高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって高田馬場としたとする。だが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説、その2つの由来が重なったためとの説もある。近接地には高田(豊島区)、上高田(中野区)の地名が見られる。一説には、この町名の元になった江戸時代の高田村の飛び地があったためとも言われている。史跡の高田馬場跡はかつての戸塚村の中、現在の新宿区西早稲田三丁目1~2、12~14番付近(早稲田通りと茶屋町通りの間。西早稲田交差点より西側付近)にあたり、広さは東西へ6町(約650m)、南北へ30余間(約55m)。横長の形状をしていた。
広重「名所江戸百景」に描かれた高田馬場・wikipedia-photo  (wikipedia・高田馬場より)]

[馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本達の馬術の練習場であった。また、穴八幡宮に奉納する為催された流鏑馬(やぶさめ)が行われ、将軍の供覧に入れた所でもある。享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木が造られ、8軒の茶屋が有ったと言われる。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社(西早稲田3-5-43)の境内には「堀部武庸加功遺跡之碑」が建っている。(平成3年11月記 新宿区教育委員会説明板から) (「落語「高田の馬場」の舞台を歩く-第53話「高田の馬場」 」より)]

カメラ北西方向・花壇の中に高田馬場の説明板があります。

高田馬場資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図」(絵図右上・清水殿の左に高田馬場が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [18]拾九利」(コマ番号2/7・地図中央左下に高田馬場が描かれています。)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・高田馬場

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「高田馬場」(12-4)、「高田馬場解説-1・右ページ最終行から」(12-3)

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