玉川上水(品川用水取水口跡)

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玉川上水(品川用水取水口跡)
[品川用水は、玉川上水を境村(今の武蔵野市・境)から分水していた仙川用水を野川村で分水し、品川領の9宿村を潤していったのです。(品川区域でも小山村と中延村には水路が引かれていませんでした。)
ところが、玉川上水から取り入れた水が品川区域まで届くには距離もあり、必要な水量が届かなかったりすることもあったため、幕府は途中の村々での分水を禁止したり、水路の改修工事をしばしば行なったりしました。
元禄4年(1691)の大改修後は、品川用水が途中で壊されたり、盗水されたりすることのないよう、それらを禁じた高札を途中の村々5箇所に建てたのです。また、境の分水口(取り入れ口)などには水番人がおかれたのですが、その費用は用水の恩恵をうけている宿村が組合をつくって負担していました。さらに、部分的な改修工事については、幕府が行なう「御普請」ではなく、用水を使う村々が負担する「自普請」によるとされていたため、負担も大きかったのですが、ともあれ品川区域の村々は、水路の保全と用水保護がなされており、農作物に必要な水は確保されていたのです。
しかし幕府が滅び、明治新政府になると、品川用水の恩恵を受けていた宿村は、徳川幕府の時代と同じ権利を引き継ぐことができるのか、大変不安な状態になりました。実際、慶応4年(1868)に高札が撤去されたことは、最も大きな心配の種だったのです。同年、6月4日、玉川上水・神田上水は明治新政府に引き渡され、水源を玉川上水にゆだねる品川用水も、当然のことながら新政府に引き渡され、改めて市政裁判所の管理下に入りました。
品川領の名主らは、大いに不安にかられ、3日後の6月7日には、品川領の名主総代の下蛇窪村と大井村の名主自らが供を連れて、境村と羽村へ状況視察に出かけたほどでした。当時の視察記録には、現状を見届け、幸い特に心配することもなく安堵したと書かれています。
明けて明治2年(1869)2月、上水の管理は民部省に移され、同4年11月には東京府の管掌下に属することになりました。  (「明治維新後の品川 第17回|品川区」より)]

カメラ北方向に品川用水取水口跡案内板があり、右方向に堰跡があります。