羽村取水堰

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マーカーは羽村取水堰です。

羽村取水堰
[1654年(承応3年)、玉川上水開削時に設置される。現在の形態になったのは1900年(明治33年)。
この堰は固定堰と投渡堰(なげわたしぜき)の2つの堰で構成されている。投渡堰とは堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置する方法であり、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっている。この仕組みは堰が設置された1654年(承応3年)からほぼ変わらず現在に至っている。
固定堰と投渡堰の境には、かつて江戸東京)へ木材を運ぶために設けられた筏の通し場が設置されている。
この羽村取水堰から玉川上水土手の約1kmの間は桜の名所でもある。
なお、当所には玉川上水の開削を請負ったといわれる玉川兄弟の銅像が建立されている。
羽村取水堰・wikipedia-photo、堰によって多摩川から取り込まれた水 ・wikipedia-photo、玉川上水方向を望む・wikipedia-photo、大量の水がごうごうと流れる ・wikipedia-photo、玉川上水開削に携わった玉川兄弟の像・wikipedia-photo  (wikipedia・羽村取水堰より)]

[投渡堰 (なげわたしせき)
取水堰は投渡堰と固定堰でつくられている。第一水門寄りの投渡堰は、4本の石造りの橋台で3つに分かれ、鉄製の桁(けた)でつながれている。それぞれに13本の丸太を立て、この丸太を支えに横に木くいを並べさらに隙間を粗朶(そだ・木の枝)や砂利などで埋めている。
 普段、水はこの堰を越えて流れているが、大雨などで多摩川が増水して一定量の水位(2.1m)を越え、堰や水門ヘの負担が増大したときは桁受け丸太を折り、ピンを外すと横に渡した鉄の桁が水圧で押されて、堰を支えた丸太や粗朶
など全て流れ去り、青い鉄の桁だけが残る(投渡木払い・ナギバライ)。
 左岸寄りの第1投渡堰から払われる。水位の変化を見ながら、第2堰や第3堰も払う。後、水量が下がれば再び堰を再構築(仕付け)する。1つの堰の仕付け費用は約100万円。仕付けは専門業者が担当している。
この構造は江戸時代の創設時から殆ど同じである。当時の堰は2つに分かれていた。石造りの橋台に以前は丸太と蛇篭でつくられた「弁慶枠」を用い、鉄製の桁の部分は「なぎ」と呼ばれた長さ、11.8mと10mのケヤキの丸太が使われ
ていた。橋台は明治15年に今の石造りに改造され、明治42年にはケヤキ丸太が鉄製の桁になり、橋台の上に作業橋が作られた。
固定堰・筏通場・魚道
それまでは枠や蛇籠で作られていた固定堰が明治38年ごろ投渡堰から丸山下に至る330間(約594m)がりコンクリート製蒲鉾型に造り替えられた。このとき古くからあった筏通し場も投渡堰より3間おいて2間巾に造りかえられた。また、筏通場より更に川の中央部の固定堰に2002年5月魚道が新たに完成した。
第一水門
現在の第一水門は大正13年(1924)に増設された上流側のコンクリート(表面は花崗岩)製の新水門(4門・12口)と、下流側の明治33年(1900)に造られたレンガ(表面は玉石張り製)の旧水門(5門)とがある。
 最大取水能力は9つの水門を全開すると毎秒22トンとなる。昭和35年に旧、39年に新水門が電動開閉式となる。
 近くの羽村郷土博物館(Google Maps)に江戸時代に使われた木製水門の復元模型と旧水門の模型が展示されている。
第二水門
この水門で第一水門で取り入れた多摩川の水量を調節する。最近まで大正3年6月に設置された板を抜き差しして、水量を手動で調節する水門が使われていたが、平成14年3月、すぐ下流に電動式の新水門が完成した。
 余分な水は水門手前の小吐水門から多摩川本流へと戻される。なお1992年以降、地元福生市などとの協定により常時毎秒2トン以上の水量を下流に流している。  (「No.14 散歩ガイド 羽村駅から拝島駅」より)]

玉川の見どころ – 羽村取水堰

羽村取水堰の360citiesです。

羽村取水堰下流の360citiesです。

羽村取水堰第一水門のカメラです。

羽村取水堰第二水門の360citiesです。

玉川兄弟の銅像前のカメラです。

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