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町奉行所の変遷
[1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅にお白洲を作ってその職務を執り行っていた。町奉行所と言う名称は、その役職から来た名であるため、町人たちからは御番所(ごばんしょ)や御役所と呼ばれていた。よく北町奉行(所)・南町奉行(所)と言われるように、(一部の時期を除き)江戸町奉行所は2ヶ所あり、月番制によって交互に業務を行っていた。これは民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、月番でない奉行所は、月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理等を行った。奉行が職権で開始する刑事事件の処理などの通常業務は、月番であるか否かにかかわらず、常に行われていた。現在で言うところの管轄区域は南北奉行所で分け合ったのはなく、南北双方の奉行所にいた廻り方同心各自に受け持ち地域を指定した。南北という名称は、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。1702年(元禄15年)閏8月 – 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。設置された理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として設置されたとされる。 (wikipedia・町奉行より)]
[町奉行所が八代洲河岸(北)と呉服橋門内(南)の2つに分離したのは、慶長9年(1604年)からといわれている。寛永8年(1632)加々爪忠澄と堀直之の2人にはじめて役宅として屋敷が与えられた。 (「中央区郷土史同好会 第47回 – Nifty」より)]
[町奉行所は住居と役宅を兼ね、一般に「御番所」とよばれた。常盤橋(ときわばし)門内(千代田区大手町2丁目)にあった北番所は1707年(宝永4)に火災で類焼し、数寄屋橋(すきやばし)門内(中央区銀座4、5丁目)に移転したため、以後は幕末まで南番所と称された。常盤橋の南にあった呉服橋(ごふくばし)門内(千代田区大手町2丁目)の番所は当初は南番所であった。しかし、1698年(元禄11)に類焼し、鍛冶橋(かじばし)門内(千代田区丸の内1丁目)に移転した。さらに1702年に呉服橋門内の南側に新番所が建てられ、先の数寄屋橋門内の南番所が新設されたため、中番所(なかばんしょ)と称されたが、1719年(享保4)に廃止となる。上記の新番所は1717年に常盤橋門内へ移転、さらに1806年(文化3)に呉服橋門内に移転するが、数寄屋橋門内の南番所との位置関係は変わらず北番所とよばれた。[吉原健一郎] 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 (「町奉行(まちぶぎょう)とは – コトバンク」より)]
[北町奉行と南町奉行の最初の役宅は、常盤橋御門内に北町奉行所が、呉服橋御門内正面(呉服橋北)に南町奉行所がおかれた、元禄11年(1698年)の勅額火事により、吉良邸が鍛冶橋から呉服橋南に、南町奉行所(松前伊豆守嘉広)が呉服橋北から鍛冶橋に移転した。
元禄15年(1702年)に呉服橋御門内南に新たな町奉行所が出来、丹羽遠江守長守が就任して中町奉行となり、三番所時代となる。
宝永4年(1707年)常盤橋の北町奉行所(松野河内守助義)が火災の類焼で八重洲河岸の高倉屋敷に仮移転し、その年9月に北町奉行所(松野河内守助義)は数寄屋橋御門内に移転した。そのため南北両町奉行の位置が逆転し、北町奉行(松野河内守助義)が南町奉行、南町奉行(坪内能登守定鑑)が中町奉行、中町奉行(丹羽遠江守長守)が北町奉行となった。中町奉行は享保4年(1719年)定鑑の辞職と共に廃止されている。 (参考「江戸天王祭覚書」より)
元禄15年(1702年)に新設された呉服橋御門内南の新番所が、享保2年1月22日(1717年)の小石川馬場火事で類焼し、同年常盤橋に移転。それが[「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書 – 一」「1-37」に描かれた町奉行所で、その町奉行所が文化3年(1806年)の文化の大火後に、再度呉服橋南に移転。この場所が以降幕末まで北町奉行所となる。]
常盤橋御門内
[「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書 – 一」の常盤橋御門内に「コマ番号36/130」[元禄十一寅年(1698年)之形・勅額火事以前」で「町奉行川口摂津守(北町奉行・1693年 – 1698年)御役屋敷」が描かれているが、「コマ番号37/130」[宝永六巳年(1709年)之形]には奉行所は描かれていない、しかし「コマ番号37/130」[享保二寅年(1717年)之形」には「町奉行中山出雲守(北町奉行・1714年 – 1723年)御役屋敷」が描かれている。
呉服橋御門内
呉服橋御門内の「コマ番号44/130」[元禄十一寅年(1698年)以前之形・勅額火事以前]の呉服橋正面に「町奉行松前伊豆守(南町奉行・1697年 – 1703年)御役屋敷」と描かれ、「コマ番号45/130」[元禄十一寅年(1698年)之形]には奉行所は描かれていなく、呉服橋・後年の北町奉行所の場所に吉良上野介の屋敷が描かれている。吉良上野屋敷が本所に転居[元禄14年(1701年)]跡には「コマ番号46/130」[文化三寅年(1806年)之形]で「町奉行小田切土佐守(北町奉行・1792年 – 1811年)御役屋敷」が描かれている。
呉服橋御門内南(呉服橋と鍛冶橋の中間)
「コマ番号54/130」[元禄十一寅年十一月之形]には松平丹波守の下が割残地となっていて、「コマ番号55/130」[享保六丑年之形]には植村土佐守となっています。「コマ番号50/130」に、その残地を元禄十五牛年町奉行丹羽遠江守の屋敷、享保二酉年町奉行中山出雲守の屋敷、その後植村土佐守の屋敷へとの記述がされています。「国立国会図書館デジタルコレクション – [江戸図正徳四年]」のコマ番号4/5絵図左上・ゴフクハシとカジハシの中間に中山出雲[町奉行中山出雲守(北町奉行・1714年 – 1723年]と描かれこの場所が新町奉行所位置であることが確認できます。
鍛冶橋御門内
鍛冶橋御門内の「コマ番号53/130」[元禄十一寅年(1698年)以前之形・勅額火事以前]の吉良上野介の屋敷(元禄11年(1698年)9月6日、江戸の大火により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋南にて再建する。)が描かれ、「コマ番号54/130」[元禄十一寅年(1698年)之形]と[元禄十一寅年(1698年)十一月之形・勅額火事以後]に鍛冶橋御門に「町奉行松前伊豆守(南町奉行・1697年 – 1703年)御役屋敷」が描かれている。「コマ番号55/130」[享保六巳年(1721年)之形」には奉行所は描かれていない。
数寄屋橋御門内
数寄屋橋御門内の「コマ番号66/130」[宝永四亥年(1707年)之形]に「町奉行松野壱岐守(南町奉行・1707年- 1717年)御役屋敷」が描かれている。「コマ番号67/130」[宝暦七丑年(1757年)之形]に「町奉行土屋越前守(南町奉行・1753年 – 1768年)御役屋敷」が描かれている。[天明五巳年(1785年)之形]に「町奉行山村信濃守(南町奉行・1784年 – 1789年)御役屋敷」が描かれている。「コマ番号68/130」[文政十亥年(1827年)之形]」[天保五牛年(1834年)之形]には町奉行御役屋敷と描かれています。「コマ番号69/130」當時之形に町奉行御役宅と描かれています。
高倉屋敷
「コマ番号73/130」[延宝年中之頃ヨリ元禄年中頃之形]、「コマ番号74/130」[元禄十四巳年(1701年)に北町奉行所が仮移転する前の八重洲河岸の高倉屋敷が描かれている。]