このページで町奉行所跡の場所及び同心・与力の役宅を紹介しています。
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町奉行所は、寛永8年(1631年)に町奉行二人制を定め町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任命された者がその邸宅での職務を執り行っていました。町奉行所と言う名称は、その役職から来た名で、江戸の人々は御番所(ごばんしょ)や御役所と呼んでいました。南北という名称は、奉行所所在地の位置関係により呼ばれていたもので、正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行と呼ばれていました。従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになります。本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が元禄11年(1698年)の勅額火事により八重洲河岸の高倉屋敷に仮移転し、その後宝永4年(1707年)9月一番南側の数寄屋橋門内に移転しました、その後、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所[鍛冶橋内にあった町奉行所は1702年(元禄15年)閏8月 – 1719年(享保4年)1月という短い間設置され、この期間を三奉行時代といいます。]が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となりました。
与力同心は慶長5年(1600年)板倉四郎右衛門勝重が奉行のとき、与力10騎同心50人が付属し、寛永8年(1631年)に町奉行二人制が定められた時、与力10騎同心50人が増員され、その後与力50騎同心200人体制となりました。
与力には一人200石を以て定額(与力総領として200石×50人=10,000石の知行所が給されている。知行取であるため、知行所から小生物や夫役を得ることができるので、蔵前取の200石に比べるとかなり裕福であったようです。)とし、同心は蔵前取で30表二人扶持(一人扶持は米5俵)を以て定額とされています。与力の拝領屋敷は武家地で約300坪から500坪、同心は約5・60坪から100坪の土地を拝領、同心の拝領地は町屋敷なので、市人に貸与することができました。
江戸の牢獄は小伝馬町にある伝馬町牢屋敷ですが、犯罪者は直接牢屋敷に送られることはなかった。町奉行所では犯罪者の証拠調等諸手続き経て牢送りを指示しました。江戸には各町内に自身番屋が置かれ、毎日町役人が詰めて町内の事務一切を取り扱う場所でした。その自身番屋を犯罪者を取り調べる場所として利用していましたが手狭で取調べにはむいていなかった。そこで八町掘の組屋敷に周辺に八カ所に被疑者の取り調べだけを目的とした調番所がおかれ、仮牢兼調所としての大番屋が設置され、その運営は町内有志の経費をもってなされました。
江戸の牢獄の内部の環境は非常に劣悪であり、医師はいましたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火や疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者は溜(浅草溜、品川溜)に収容されました。
江戸で遠島が申し渡されると、直ちに小伝間町牢屋敷に入れられる。 一般の牢舎ではなく遠島予定の者を収容する東口揚屋で流人船の出航を待つ。永代橋の際または霊岸島(または芝金杉橋)から囚人護送用のはしけに乗せられて本船に移される。永代橋から出るのはいかなることがあっても戻って来ることができない囚人、霊岸島または金杉橋の方は、何年かの後には特赦になる可能性のある囚人と決まっていたようです。
朱引
[朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が江戸の範囲を示すために使った用語であり、地図上に朱線で囲った地域として示されたことに由来する。
一般に「大江戸」として認識されているのが、この朱引の範囲であり、現在の山手線の周辺と隅田川東岸の下町地域(墨田区および江東区)を合わせた地域にほぼ一致する。「朱引」は1818年に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。
江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでに、その範囲は不明確となっていた。幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを出し、それを受けて同年12月、老中安部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の見解が朱引である。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。
これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」、「御府内(ごふない)」、などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。
朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである。 (wikipedia・朱引より)]
井戸覚弘 (旗本)屋敷跡 – [1849年~1856年の北町奉行]
弘化2年(1845年)、目付から長崎奉行になり、任期中の弘化3年(1846年)、琉球国に通商拒絶されてしまうが、長崎に来航したセシュ提督率いる仏艦隊の対応をするとともに、嘉永2年(1849年)には米艦プレブルへの米人漂流民の引き渡しの交渉をまとめあげました。この手腕を買われ、時の老中阿部正弘の抜擢で北町奉行となりました。そして、嘉永7年(1854年)2月マシュー・ペリーの再来に際して、米国使節応接掛を命ぜられ、交渉に従事し日米和親条約の締結に至りました。さらに同年下田開港の為に下田に赴き、5月に日米和親条約付録(下田追加条約)に調印しました。安政3年(1856年)に大目付となりますが在職中に没しました。
旗本井上清直屋敷 – [1862年~1863年の南町奉行、1866年~1867年の北町奉行]
文久2年(1862年)、南町奉行に就任しますが、翌文久3年(1863年)に水野忠徳と共に小笠原長行の率兵上京に従ったために免職となります。慶応2年(1866年)に関東郡代となり、同年に北町奉行に転任して幕末で混乱する江戸の収拾に努めました。翌慶応3年12月25日(1868年1月19日)、現職のまま死去しました。享年60。
与力・仁杉八右衛門家 – 仁杉(ひとすぎ)家の本家筋である仁杉五郎左衛門が天保改革前後の権力闘争に巻き込まれ牢死し仁杉家本家は断絶するが、その以前に、五郎左衛門の義兄(姉の聟)幸棖が興した分家仁杉八右衛門家が伊賀守幸通以来の仁杉家を後世に伝えることになった。仁杉八右衛門家は支配役年番筆頭、南組与力同心の総取締役。
与力・佐久間長敬(弥太吉)家、原胤昭(定太郎)家 – 町奉行所の最後の与力で与力佐久間長敬、仁杉英、原胤昭(定太郎)等編集による「町方与力」をのこした。佐久間長敬は明治政府への旧幕府引き継ぎに立ち会とともに、「安政日記抄」を遺している。原胤昭は晩年、『江戸時代文化史』という雑誌に「八丁掘与力の生活」を出稿し旧幕府についての、貴重な資料を遺している。
与力・山崎助右衛門屋敷跡(烏亭焉馬) – 戯作者 二代目鳥亭焉馬、二代目焉馬は与力の身分にありながら、遊蕩のため家督を弟に譲り、分米を得、気随な生涯を過ごした。
与力・東條八太夫屋敷跡 – 東條八太夫は、遠山左衛門尉景元が公事上聴で見事な裁きをして将軍からお褒めの言葉を賜り、名奉行としての地位を築いた。その遠山左衛門尉景元を補佐した与力であるが、東條八太夫は謀られて長崎に左遷された。
与力・都筑家屋敷跡 – 北町奉行所与力・都筑は有力与力だった。建物平面図、火事装束などの遺品の一部が江戸東京博物館に寄贈されている。
加藤枝直・千蔭父子邸跡 – 加藤枝直(かとう えなお)は歌人として著名で、享保5年(1720年)には大岡忠相配下の町奉行与力となり、翌年には吟味方に昇進、300坪の邸宅に10人の奉公人を抱えられる身分となる。在職中に「公事方御定書」を起草したほか、幕府の文教政策にも関与した。
加藤千蔭(かとう ちかげ)は国学者・歌人・書家として著名で、歌人で江戸町奉行の与力であった父・枝直の後をついで吟味役となったが、寛政の改革にあたり、1788年(天明8年)町奉行与力を辞し、学芸に専念した。和様の書の流派千蔭流の祖。
同心・今泉覚左衛門屋敷跡 – 八丁堀の同心の家筋から出て、後に学者と鑑識家として知られ、帝室博物館美術部長などを歴任し、大正五年に大倉集古館長となった。
同心・浅井竹蔵屋敷跡 – 樋口一葉の父親の則義は、平同心浅井竹蔵から同心株を買って同心となった。
同心・間米藤十郎家屋敷跡 – 間米藤十郎は丸橋忠弥召し捕りの際の功によって玄関を許されたことから、諸説八丁堀の七不思議に「血染めの玄関」とある。子孫の間米長十郎氏は第2次世界大戦前まで居住していた、という。
同心・人見為介屋敷跡 – 同心・人見周介/周助(ひとみ・しゅうすけ) 四世 川柳。文化文政時代の江戸町人文化を背景に川柳・狂歌が盛んとなり、この時代を四世 川柳は「俳風狂句」時代と命名した。
神保小路 – 同心が通りに面して自分の拝領屋敷内に脊割長屋を作り賃貸して、軒並み脊割長屋のスラム街ができ「貧乏小路」と云われた。
地蔵橋 – 絵図には火の見櫓や地蔵橋通りの記載もあり、組屋敷地の中心地として、ひとつのランドマークであったのだろうか。八丁堀の七不思議にも「地獄の中の地蔵橋」「地蔵の像なくして地蔵橋」などに引き合いされている。