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海獄楼跡(かいごくろうあと)
[幕末の鴻儒安井息軒こうじゅやすいそっけんは、慶応元年(1865)ここに居を定め、西に富嶽を望み、東に金杉の海の見える所から、海獄楼と称した。
明治元年(1868)2月類焼した。 平成5年(1993)3月 千代田区教育委員会 (「東京都千代田区の歴史 海獄楼跡(かいごくろうあと)」より)]
安井息軒
[安井 息軒(やすい そっけん、寛政11年1月1日(1799年2月5日) – 明治9年(1876年)9月23日)は江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。日向国宮崎郡清武郷(現・宮崎県宮崎市)出身。その業績は江戸期儒学の集大成と評価され、近代漢学の礎を築いた。門下からは谷干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。妻の佐代は、森鴎外の歴史小説『安井夫人』のモデル。
有名な言葉としては「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」
安井息軒は飫肥藩士・安井滄洲の次男として、清武郷中野(現・宮崎市)に生まれた。幼名は順作。
幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌になった。学者であった父の影響を受けて学問を志し、大坂の篠崎小竹、江戸昌平坂学問所で古賀侗庵に、また松崎慊堂に師事した。
文政10年(1827年)、清武郷に帰り、森鴎外の小説『安井夫人』に登場する川添佐代と結婚。郷校「明教堂」、藩校「振徳堂」で父と共に教鞭を揮った。天保8年(1837年)、再度昌平坂学問所に学び、翌天保9年(1838年)、家族と共に江戸に移住し、私塾「三計塾」を開く。「一日の計は……」はこの三計塾の設立主旨。
塩谷宕陰、木下犀譚、芳野金陵らと親しく交流するとともに「文会」を主宰し、互いに切磋琢磨する。「文会」には藤田東湖ら新進気鋭の学者らが次第に加わり、やがて時勢を論じ合う場にも変化した。
黒船の来航による混乱の中、息軒は水戸藩儒であった藤田東湖を介して幕府攘夷派の中心人物であった水戸斉昭に意見を求められ、『海防私議』『靖海問答』などを上書するが、斉昭は安政の大獄のさなかに没してしまい、この意見が用いられることはなかった。
文久2年(1862年)には塩谷、吉野らとともに幕府儒官を拝命し「文久三博士」と称される。
元治元年(1864年)には奥州塙代官に任命されるが高齢ゆえの周囲の反対により赴かずして免官、戊辰戦争の際には、領家村(現埼玉県川口市領家)に疎開、『北潜日抄』(埼玉県指定有形文化財)を著した。
明治元年(1868年)、幕府崩壊により身分も飫肥藩籍に戻り、飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力するも、明治5年(1872年)の学制発布により塾生は激減、自らも高齢により視力が衰え、四肢不自由となる。持ち前の不屈の精神で最後まで筆を離さず『睡余漫筆』を書き綴った。
明治9年(1876年)9月23日午後7時、77年の生涯を東京で終えた。遺体は東京・千駄木の文京区ホームページ – 養源寺に埋葬され、現在東京都史跡に指定されている。 (wikipedia・安井息軒より)]
[森鴎外作「安井夫人」に「三計塾」の場所は上二番町[明治5年(1872)に表二番町(おもてにばんちよう)通南側と裏二番町(うらにばんちよう)通北側・南側一帯を二分して成立。昭和13年(1938)、かつての五番町と上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。)とし、「海獄楼」について下記のように記述しています。
[江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸(しもやしき)にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院(こんじいん)にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があってから、はじめて五番町の売居(うりすえ)を二十九枚で買った。
お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していたときである。いわゆる三計塾(けいじゅく)で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあって、階上が斑竹山房(はんちくさんぼう)の※(「匸<扁」、第4水準2-3-48)額(へんがく)を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字仮屋(かりや)の虎斑竹(こはんちく)を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女登梅子とめこと、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾にやって来た。
住いは六十五のとき下谷徒士町(したやかちまち)に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端(ほりばた)の家を買って移った。策士雲井龍雄(くもいたつお)と月見をした海嶽楼(かいがくろう)は、この家の二階である。 (「森鴎外 安井夫人 – 青空文庫」より)]
カメラ西北西方向が海獄楼跡に建つ、ふくおか会館(福岡県東京事務所)です。