マーカーは佐野善左衛門宅跡案内板です。
佐野善左衛門宅跡
[標識の後ろ側、大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から、旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は、禄高500石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄の田沼意知山城守に斬りつけました。田沼意知は傷がもとで4月2日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。また。佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。 平成16年(2004)3月 千代田区教育委員会 (「東京都千代田区の歴史 佐野善左衛門宅跡」より)]
佐野政言
[佐野 政言(さの まさこと、 宝暦7年(1757年) – 天明4年4月3日(1784年5月21日))は、江戸時代中期の旗本。佐野政豊の子で、通称を善左衛門という。目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。
佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし代々番士を務めた家であり、政言は6代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め1773年(安永2年)に致仕し、代わって8月に政言が8月22日に17歳で家督を相続(500石)した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永6年)に新番士となる。
天明4年(1784年)3月24日、江戸城中で、若年寄・田沼意知を「覚えがあろう」と3度叫んでから、一竿子忠綱作の大脇差で襲撃し、その8日後に意知が絶命したため切腹命じられ、自害して果てた。葬儀は4月5日に行われたが、両親等の遺族は謹慎中であり出席できなかった。佐野家も改易となったが、遺産は父に譲られることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、その後長く佐野家の再興はなかったが、幕末になって再興されている。
犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事、上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事、等々諸説あったが、幕府は乱心として処理した。
田沼を嫌う風潮があった市中では田沼を斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた。墓所徳本寺。法名は元良印釈以貞。
佐野善左衛門宅跡東京都千代田区・wikipedia-photo (wikipedia・佐野政言より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタル化資料 – 番町一圓之絵図 三 」の「コマ番号120/186」・宝永五子年(1708年)之形の麹町三丁目横町通と御厩谷の角地に佐野善左エ門と記述されています。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東都番町図出版年月日・宝暦5(1755)」(絵図中央付近・御厩谷通り左端に「佐野傳右エ門」と記述されています。)
カメラ西方向歩道上・ガードパイプそばに佐野善左衛門宅跡の説明版があります。