和学講談所跡

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和学講談所跡
[【都指定旧跡】
和学講談所は、塙保己一の建議により寛政5年(1793)現在の九段小学校付近に設置され、文化2年(1805)この地に移転し、慶応4年(1868)に廃止されるまで国典の教授、出版事業が行われました。塙保己一は江戸時代後期の国学者で、7歳のときに病により失明、15歳で江戸へ出て音曲や鍼灸を習う一方、賀茂真淵らに師事して国史・古典を学びました。天明3年(1783)には瞽官人の最高位である検校に進み、文政2年(1819)国史・国文などの典籍を収めた『群書類従』670冊刊行の大事業を成し遂げました。 「番町で目明き盲に道を聞き」とい川柳は、塙保己一をうたったものとして有名で、「道を聞き」はもちろん、交通のことではなく、学問の道にかけたものです。  (千代田区観光協会ホームページより)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」[絵図左上の御用地右下に堀田左京(佐野藩堀田家)上屋敷があり、そのさらに右下に塙次郎とある、そこが和学講談所です。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」(127/186、129/186の中央上方向・堀田摂津守の左下に塙次郎と記述されています。)

カメラ南西方向に和学講談所跡の標柱があります。(2009年11月の画像。現在この地はパーキングになっていて標柱は撤去されています。)

(2018年2月の画像)

[塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) – 文政4年9月12日(1821年10月7日))は、江戸時代の国学者。幼名は丙寅にちなみ寅之助(とらのすけ)、失明後に辰之助(たつのすけ)と改める。また、一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗る。雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一(ほきいち)と改名した。『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。子に伊藤博文山尾庸三に暗殺されたとされる国学者塙忠宝がいる。武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。17歳(満15歳)で盲人の職業団体である当道座雨富須賀一検校に入門。保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。国学・和歌萩原宗固(百花庵宗固)に、漢学神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺(イギリス公使館)に、和歌を閑院宮に学んだ。天明3年(1783年)に検校となる。天明4年(1784年)、和歌を日野資枝(ひのすけき)に学ぶ。寛政5年(1793年)、幕府に土地拝借を願い出て和学講談所を開設、会読を始める。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になり、同年9月に76歳で死去。四男忠宝が跡を継いだ。生家は国指定遺跡で、記念館も置かれている。墓所は東京都新宿区若葉の愛染院。  (wikipedia・塙保己一より)]

塙忠宝
[塙 忠宝(はなわ ただとみ、文化4年12月4日(1808年1月1日) – 文久2年12月22日(1863年2月10日))は、江戸時代末期(幕末期)の国学者。塙保己一の四男。母は岡田イヨ。通称は次郎(じろう)。なお、忠宝の名は林述斎が命名。
『史料』、『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わった。また、『南朝編年稿』、『近世武家名目一覧』、『集古文書』などを編著した。
文久2年(1862年)、江戸幕府老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府の外国人を待遇の式典を調査するも、孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士達を刺激。12月21日、幕臣中坊陽之助邸(駿河台中坊陽之助屋敷跡)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に何者かに襲撃され、翌日死去した。なお、大正10年(1921年)の六十年祭の折に渋沢栄一はこの暗殺者が伊藤博文山尾庸三であったと明らかにしている。  (wikipedia・塙忠宝より)]

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