小笠原太郎左衛門屋敷跡

マーカーはカメラ位置です。

狭山の旗本小笠原家
狭山市 – 調査報告書・資料』で旗本・小笠原家の「狭山の旗本小笠原家調査報告書」が紹介されています。
このサイト記述の小笠原太郎左衛門について地図検索してみました。

小笠原太郎左衛門屋敷跡
小笠原家は番方の旗本で、軍事的緊張が続いた江戸時代初期は重視されたが、次第に重要性が低くなった。小笠原家は初期450石から始まり、8代当主の時に1190石取りとなる。
小笠原家が務めた役職
大番組 –  江戸幕府の軍制で、旗本で編成された将軍直属の戦闘部隊。江戸城江戸市中を警備し、交代で大阪城二条城にも勤務した。幕府開設前の天正15 年(1587)の3組設置を起源として、寛永9年(1632)以降12組となる。各組に大番頭1名、組頭4名、番士50名で編成された。小笠原家では、2代目(組頭)、3代目、4代目、7代目、8代目、8代目の次男の6名が大番役を務めた。
二条城勤務の大番(8代の二男・廣胖) – 徳川将軍不在の二条城は、二条在番と呼ばれ江戸から派遣された武士が警備をし、毎年2組(1組50人)が4月に交代して番にあたっていた。小笠原廣胖はその在番中に没す。 
新番組(旗本で編成された軍事組織) – 寛永20年(1643)に新設された。旗本20人を1組として編成し、当初は4組だっが、後に8組となった。小笠原家では大番を経て新番になった当主は、3代目、4代目、7代目である。
御納戸番(将軍の身の回りの世話役) – 将軍家の金銀、衣服、調度などの出納係で、小笠原家では 12 代目当主が天保13 年(1842)から幕末まで勤めた。
小普請(無役)  – 無役の旗本で、幕府は小さな普請(小破損の建築や土木工事)の人足を旗本や御家人に課していた。元禄3年(1690)からは金納(小普請金)となった。小笠原家では、9代目、10代目、11代目が小普請だった。なお5代目、6代目については役職の記録がない。

●初代 太郎左衛門安勝  家康の近侍 天正 18 年(1590)狭山に知行地 450 石を賜る。 
●2代 太郎左衛門安村  大番、大番組頭、御留守居番 200 石加増を受け、布衣を許される。
●3代 太郎左衛門安光  大番、新番 
●4代 傳四郎廣員    大番、新番、桐間番、小納戸、新番(再) 常陸国にも領地を賜った。 
●5代 太郎左衛門廣満  なし
●6代 喜右衛門廣貞   なし  
●7代 太郎左衛門廣芬  大番、新番
●8代 太郎左衛門廣保  大番 養子、33 歳の時に小笠原家を継ぐ。知行地 1190 石。 
   次男 太郎左衛門廣胖  大番
●9代 傳四郎廣明    小普請
●10代 長次郎廣運    小普請
●11代 政之丞廣道    小普請
●12代 太郎左衛門廣善  御納戸番 幕府崩壊で静岡県榛原郡金谷原へ移住。

屋敷跡資料リンク
元禄2年(1689)番町にある小笠原家 絵図には、お城近くの番町に小笠原太郎左衛門の屋敷がある。

深川富川町の屋敷 – 嘉永年間発行の尾張屋版深川絵図・深川富川町に小笠原太郎左衛門の屋敷がある。
南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌 」- 「bunko01_01855_p0004.jpg」[嘉永4年(1851年)地図中央付近・五間堀左側に小笠原太郎左エ門その右に小笠原源太左衛門と記述されています。
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」[嘉永5年(1852年)尾張屋版絵図中央左上・五間堀右に上図の小笠原太郎左エ門の跡に小笠原源太左衛門と描かれています。]

元治元年(1864 年)の東都番町大絵図にある小笠原家、小笠原家が屋敷替えの冥加として、嘉永4年(1851年)10月に田中村清水組の百姓より六両壱分弐朱、銭六百弐拾六文を請取っている。
(安政5・1858年)」(絵図中央下市ヶ谷御門左側・表四番丁通りに小笠原太郎左エ門と描かれています。)
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」[安政3年(1856年)46/186、48/186・地図中央右側、表四番丁通下右から二軒目に小笠原太郎左エ門と記述されています。)]

カメラ北北西方向付近に幕末の小笠原太郎左衛門屋敷があったようです。

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