小野鶴次郎屋敷(山岡鉄舟寄寓地)跡

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小野鶴次郎屋敷(山岡鉄舟寄寓地)跡
[嘉永五年(1853)七月、小野鉄太郎(山岡鉄舟)は両親の相次ぐ死で、飛騨高山から江戸に戻った。戻った先は異母兄の小野鶴次郎(古風)の屋敷であり、鉄太郎の後ろに五人の弟が連なっていた。金五郎、忠福、駒之助、飛馬吉、それと末弟の務は二歳の乳飲み子であった。
異母兄である小野鶴次郎の屋敷は、元治元年(1864)の江戸切絵図に掲載されている。当時の歩兵屯所の跡地が現在の靖国神社、その青銅の大鳥居の北側に九段高校(現千代田区立九段中等教育学校)、白百合学園があり、その奥に衆議院議員宿舎(2008年に閉鎖)があるが、その中間あたりに鶴次郎の屋敷があって、今の住所は千代田区富士見二丁目である。なお、このあたりは旗本屋敷が多く、年々歳々役職が変わっていくので、そのたびに移転が多く、切絵図は度々改変されている。因みに安政三年(1856)の切絵図を見ると、同所は小野朝右衛門で六百石となっていて、切絵図の記載から鶴次郎が小野家を継いだことが分かる。
この鶴次郎について鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に
『異母兄小野古風は凡庸の資で、取り立てて云ふほどのこともない。晩年には師匠(注 鉄舟)の人格に深く傾倒して、弟を『先生、先生』と呼んでいた程の好人物であったが、飛騨から多勢押しかけた事については、お互いの不幸を嘆く前に一方ならず迷惑視したらしく、冷やかな待遇を興へてゐる。末弟の務は生後僅かに二歳で、しきりに乳を求めるので、鐵舟は兄に乳母を雇って貰い度いと懇願したが、とんと取りあっては呉れなかった。仕方がないので、鐵舟は務をいだいて、近所に貰ひ乳をしてあるき、夜は重湯に蜜をといで、枕邊にあたためて置き、毎夜自分が添寝をして育てたと云ふことである。十七歳の若年鐵舟を鍛錬したものは決して剣禪のみでなく、幸福なるべき六百石の若殿は、早くも浮世の辛酸と雄々しくも戰闘を開始して、不退轉の心情を陶冶してゐたのである』
とある。
父母を失うという已む得ない事情と、鶴次郎から冷たい待遇を受けながらも、鉄太郎は必死に弟たちの面倒を見て江戸での生活をスタートさせたのであった。このようなことを通じ後年の鉄舟人間の基礎が出来ていったのである。  (「山岡鉄舟 研究会: 弟たちの世話に明け暮れる | 江戸城の無血開城を実現 …」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」(絵図左中央付近、定火消御役屋敷右下方向に小野鶴次郎と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図」(嘉永新刻版・絵図左中央付近、定火消御役屋敷右下方向に小野朝右衛門と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」(コマ番号75/186・地図左上、定火消御役屋敷右方向に小野朝右衛門と記述されています。)

カメラ北北西方向は栗田九段ビルで、この場所が小野鶴次郎屋敷(山岡鉄舟寄寓地)跡です。